批評再生塾 道場破り 第五回「誤読、誤解、行きちがい、失敗を考え直す。しくじりの効用を論じて下さい。」へのぶっこみ原稿

音楽は環境に従う――音楽における、モ、モノ、モノミ――

 

Track1:Overture

 もちろん私は今でも、音楽が好きです。コアなファンというわけではありませんが、だからといってそう簡単に「音楽好き」の看板を下ろすことはできません。

 しかし、何故だかはわかりませんが、私はいつからか、新しい音楽を発掘することに対して情熱が持てなくなってしまいました。今でもいくつかのCDやデジタルコンテンツを購入してはいますが、しかしそれを「惰性で買っているだけでしょう」と指摘されたときに、私は強く否定することができません。

 かつてはそうではありませんでした。私の内には確かに、音楽を摂取することに対して、情熱が存在していました。新たなアーティストと出会ったときに感じる喜びを求めて、常に音楽へ働きかけ続けていました。これまでに音楽へ注ぎ込んできた時間や金が、それを裏付けています。HMVヴィレッジヴァンガードで新譜を買い、ディスクユニオンで中古品を買い、クラブでDJのミックスCDを買い、次々と消費していった思い出が、それを裏付けています。過去に幾度となくCDを交換した友人たちが、それを裏付けています。

 しかしいつからか、ぱったりとそれらがなくなってしまいました。

 それは何故なのでしょう? そして、いつからなのでしょう?

 これまでにもぼんやりと、それについて考えたことはありました。しかし、だからといって深く考えることはなく、そして結論も出ないままでした。大学を卒業し、働き始めたせいで、それについてしっかりと考える時間が無かったからです。

 しかし、今回この課題に取り組むにあたって、それについて正面から向かい合い、深く考えることで、一つの結論がでました。

 私はそもそも、音楽に対する興味を、これっぽっちも持ち合わせてはいなかったのです。

 

Track2:モ

 そもそも、私の中に存在していた音楽への姿勢は「模」でした。

「模」の読みには「も」と「ぼ」の二通りが存在しますが、旧字体で「模」は「糢」であり、その場合の読みは「かた」あるいは「のり」となります。そして「かた」の場合は「形状、形、ありさま」を意味し、「のり」の場合は「手本、モデル、学ぶに値する先人」を意味しています。また、「模」の使用例も「模楷、模擬、模型、模糊、模傚、模刻、模索、模写、模造、模即、模範、模倣、模本、模様」となっており、一部の例外を除けば、模は真似ることを意味し、それに続く文字はその形態を示している、という形式が主流と言えます。(※1)

 つまり、私の音楽に対する「模」的な姿勢というのは、端的に述べるならば、音楽に対して受動的、あるいは消極的な立場にあった、ということなのです。

 例えば、私は幼少期よりヴァイオリンを習っていましたが、それは果てしなく続く「模」の反復作業でした。

 また、私は友人との話題作りのために音楽を聴いていましたが、それも、話題になる音楽を選ぶ=誰かが聞いている音楽を参考にする、という視点において「模」なのでした。

 私が話題作りを目的として音楽を聴き始めたのは、高校時代のことでした。それまでは、一切音楽を話題にせずとも日々を送ることが可能でした。漫画やアニメやゲームの話題をしていれば事足りました。しかし高校へ進学したその瞬間から、それらを話題にする人間がいなくなりました。仕方なく、私は音楽を聴き始めました。

 私が聞き始めた音楽は、HIPHOPでした。当時、HIPHOPは既にアングラからメジャーへの移行を終えていました(キングギドラによる、DragonAshのkjや、RIPSLYME、KICK THE CAN CREWに対するDISが、それを象徴していました)。HIPHOPは、話題としての機能を十分に有していました。

 ただ、不思議なことに、単なる話題作りとしてしか興味を持っていなかったHIPHOPに、私は自然とのめりこんでいきました。とはいえ、クラブへ出入りする勇気はありませんでしたので、のめりこむといってもたかがしれたものではありましたが、しかしそれでも、私は書店やCDショップで購入できるあらゆるものへ、限度額いっぱいの小遣いを投入していきました。

 

Track3:モノ

 HIPHOPの世界へ没入していくうちに、私の興味は消費から創造へと移っていきました。すなわち、ただ物を購入して享受するだけではなく、その制作に携わることで、HIPHOPへの理解を深めたい、と考え始めたのです。

 そういう点で、大学に進学した私が、ストリートダンスのサークルに入ったのは必然と言えました。

 HIPHOPにはいくつかの構成要素があり、その要素については人によって諸説紛々あるのですが、もっとも一般的な構成要素を挙げると、「RAP」「DJ」「GRAPHITY」「BREAK DANCE」の四つになります。そして、私が進学した大学に、サークルとして存在するのは、ダンスしかなかったのです。

 ダンスは、二つの点で私に、音楽の理解を深めさせました。

 一つめは、音の質感でした。

 ダンスをするうえで、音を無視して踊ることはできません。音に乗って踊ることが……もっと踏み込んだ表現をするならば、体から音が生まれているように見えるような踊りをすることが、重要になってきます。そのためには、その音がどういった質感を持っているのか、ということを深く理解しなければいけません。のっぺりとした音、乾いた音、はじける音、震える音……音には様々な表情が存在し、それを具体的な形で、なおかつ、誰もが思いつかなかったような表現をする。その、ある意味で大喜利的な表現こそが、ダンスの醍醐味と言えます。

 そのためには、かなりの「積極的」な音楽の視聴が必要となります。単に視聴するだけでなく、一つ一つの音が、どういう音であるかを分析しなければならないのです。それは非常に手間のかかる作業でしたが、しかし他方で、そこに存在する音の意味を発見することができる、重要な作業でもありました。

 さて、ダンスが私にもたらした二つめの理解は、曲の構成でした。

 ダンスのショーケースを行う際に、選んだ音楽を無編集で使う、ということはほぼありません。通常、イベントの運営側からは3分~5分の時間を与えられ、ダンサー側はその中で世界観を表現するために、2曲から3曲を編集してつなげ合わせたものを使用します。すなわち、一曲あたりの時間を短くするために、編集作業を行うのです。

 私はその編集作業にも携わっていましたが、そこでは驚きの連続でした。編集作業は、楽曲の構成に対する理解を深める、素晴らしい機会になりました。それはある意味で、作曲者との無言の会話に近い、と私は考えています。すなわち、この楽曲において最もやりたかったことは何なのか、曲を自然に展開させるために行った工夫は何か、どういう順序で曲を組み立てていったのか、どこに苦悩が集中しているのか、というようなことが、不思議と理解できるようになるのです。

 例えば、楽曲を建築物、視聴者を鑑賞者とした場合、ただ楽曲を視聴することは、その建築物の表面を見て回ることにほかなりません。しかし編集作業は、その建築物の設計図を手にしながら鑑賞するということに等しく、それゆえに鑑賞者は、その裏側に存在するあらゆるものが透けて見える、ということなのです。

 このようにして、私は楽曲に対する理解を深めていきました。しかし考えてみれば、これは不思議な体験でした。なぜならば、私における楽曲への理解は、ただ単純に楽曲を視聴した場合よりも、何らかの、楽曲自身とは別の場所に目的が設定された場合の方が、はるかに深めることがでたのですから。

 すなわち「踊るため」であるとか「短く編集するため」という、ある意味では楽曲の外側に設定された目的が、逆説的に私を楽曲へと向き合わせ、と同時に、それらの目的を達成するためには、ダンスの振り付けや、編集という意識をいったん排し、楽曲そのものをしっかりと理解しなければならない、というように、状況が変化していったのです。

 それは要するに、様々な関係性の中に存在していた楽曲を、一旦取り出して吟味する、ということであり、言い換えるならば、楽曲を単体として――monoとして――扱う、ということなのでした。

 

Track4:モノミ

 話題のために、ダンスのために、編集のために、という様々な条件がはがれ、ただ単純に音楽を求めるようになったのがいつのことなのか、私にはわかりません。

 しかし恐らく、その原因もダンスにあったのだと思います。

 そもそも、私が聞く音楽のジャンルをHIPHOPから解放したのも、ダンスでした。

 ダンスはHIPHOPを構成する一つの要素ではありますが、しかし、ダンスに使われている楽曲のジャンルは、多岐にわたっていました。ジャズ、ビバップ、ファンク、テクノ、ハウス、ブレイクビーツ……。私は友人と、先輩と、後輩と、サークル外の人間と、様々な楽曲を交換していきました。

 そしていつしか、私は「より聞いたことのない音楽」を求めるようになりました。

 何らかの目的のために音楽を求めるのではなく、音楽を聴くという目的のために音楽を求めていました。

 より聞いたことの無い音楽を聴くためには、「ジャケ買い」が最も効果的でした。Steve ReichTUJIKO NORIKOThe White Stripesに出会ったのも、この手法を用いはじめてからの事でした。私はありとあらゆるジャンルを、まるで物見高い観光客のように横断していったのです。

 

Track 4:音楽は環境に従う

 大学を卒業した私は、実家へと戻り、職場と実家を往復する生活を送るようになりました。

 そしていつしか、私は新たな音楽を求めなくなりました。

 当然、音楽は聞き続けていましたが、しかし、これまでに出会ってきた音楽だけで、やりくりするようになりました。

 CDショップに通わなくなり、デジタルコンテンツを探すこともしなくなりました。

 好きなアーティストの新譜が出た場合にのみ、アマゾンで買うようになりました。

 そして私はふと、気が付きました。

 すべてがもとに戻ったのだ、と。

 小・中学生の頃のように、私の生活から再び、音楽が必要なくなったのだ、と。

 そう。私の音楽に対する興味は常に、内発的なものではなく、外圧によって生み出されたものでした。

 高校時代にHIPHOPを聞いていたのは、多くのクラスメイトがHIPHOPを聞いていたからでした。

 大学時代に様々な音楽へ触れていたのは、サークルの人間もまた、様々な音楽へ触れていたからでした。

 そして今、私が新たなアーティストを求めていないのは、恐らく、家でも、職場でも、誰もがそれを求めていないからなのでしょう。

 そう。私の音楽に対する興味は、気持ちは、愛は、その程度のものだったのです。

 そして、いずれ私は、あらゆる音楽が、不要になるのでしょう。

 かつて、そうであったように。

 

Bonus track:Michael Jordan

 しかし、こうも言うことができるでしょう。つまり「今、私が新たなアーティストを求めていないのは、職場の人間が新たなアーティストを求めていないからに“過ぎない”」と。

 そう。私はこれまでに、一つの勘違い、あるいは思い込みをしていたのでした。

 確かに私は再び、音楽へ興味を持てなくなった自分へと回帰してしまいました。でも、だからといってどうしてそれが、これからも興味を持つことがない、ということの証明になるのでしょう?

 そう。その可能性は、いささかも否定されてはいないのです。

 音楽が存在している限り、私には「私が再び音楽への興味を取り戻す」という可能性が存在し続けます。音楽が不要な環境へと戻ってきたのと同じように、私はいつでも、音楽が必要な環境へと戻ることができるのです。

 アメリカのプロ格闘ゲーマー、PR Balrogは、自身の引退インタビューで、以下のように述べています。

Honestly, I would like to take a big long break before I go to any FGC event, but everyone will probably see me at every EVO and Capcom Cup etc. I love watching fighting games and who knows if any other mainstream fighting games sparks a fire in me in the future? After all, Jordan came back two times after retiring.

訳:正直なところ、格闘ゲーム関連のイベントの前に、長期の休暇を取りたいけれど、でも、おそらくはEVOやカプコンカップなんかのたびに僕の姿を見ることになるだろうね。僕は、格闘ゲームを見ることは大好きだし、それに、将来流行る格闘ゲームが僕に火をつけるかどうかなんて、誰にもわからないだろ? マイケルジョーダンだって、引退後に二度、戻ってきたしね。(※2)

 

※1

三省堂 「全訳  漢辞海」より

 

※2

http://www.eventhubs.com/news/2015/jan/15/i-feel-i-dont-have-same-drive-i-had-and-i-just-dont-dedicate-time-it-pr-balrog-opens-about-his-coming-retirement/ より抜粋。訳は筆者