ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第二回「ポスト昭和はどこにあるのか」へのぶっこみ原稿

ソナタビバップが、僕らを導く」

 

 昭和は団結の時代であった。また、団結せねば生き残れない時代でもあった。戦時中はもとより、戦後も復興のために、あるものは地域に属し、あるものは会社に属し、団結していた。団結し、邁進することこそ、夢にまで見た平和と繁栄へ通ずる道であると、誰もが信じていた。そしてその夢が霧散する可能性については、誰も考えてはいなかった。

 夢は高度経済成長として現実となり、バブルとなって膨れ上がり、いとも簡単にはじけてしまった。そうして、あらゆる団結の根拠は失われてしまった。目標を失った団結の脆弱さが露呈されてしまった。バブルの傷跡から、団結以外の方法で立ち直る術を求められたが、しかし誰もそれに応えることはできなかった。年号はいつの間にか、平成へと移り変わっていた。

 団結が価値を失ったその反動として、あるいは反省として、人々は個性に価値を置くようになった。子どもたちにも、その価値観は「ゆとり教育」としてもたらされた。昭和63年生まれである私も、その一人である。私の個人的な体感としては、「ゆとり教育」自体が、我々の個性を積極的にのばしたとは思えないが、しかし他方で、団結に対する盲目的な価値をとりはらい、個性=個としての存在価値を探求する機会を与えたことは確かだった。

 そうして我々は団結から個へと価値を移行し、IT革命やSNSの発展によってその具体的実践場が用意され、誰もがそこで個としての表現をすることが可能になった。そう。個の時代が到来したのである。

 それは、新たな時代のあり方として、うまくいくかに思われた。確かに問題は多く存在するものの――個として取り残された者たちの凄惨な末路。つまりは秋葉原通り魔殺人事件や、老人たちの孤独死――しかしそれらは、社会的、科学的な技術の発展――例えばベーシックインカムや、個人判別可能な監視カメラ――によって、解決可能だと思われていた。そう遠くない未来に、個としての、平和と繁栄を勝ち得た未来が存在すると、夢見ることができたのである。

 しかし昭和の夢がいとも簡単にはじけてしまったように、平成……とりわけゼロ年代の夢も、いとも簡単にはじけてしまった。2011年3月11日の、東日本大震災によって。

 そうして再び、団結の時代が到来した。IT革命やSNSの発展が「団結から個へ」という価値の移行を推し進めたように、東日本大震災はその真逆、つまりは「個から団結へ」という価値の移行を急速に推し進めた。

 そう。我々は昭和へと回帰したのである。

 それならば、我々は結局のところ、何も獲得することができずに、ここまで来てしまったのであろうか。それとも、僅かに存在した「個の時代」こそが、「ポスト昭和」としての、失敗の獲得であったのだろうか。

 いや、恐らく「個の時代」は、「ポスト昭和」ですらないだろう。いうなれば「プレ・ポスト昭和」。つまりは、前時代の価値を批判しながらも、新たな価値へとジャンプしきれていないような、二つの価値の刃境に存在する、不完全な価値であったに違いない。

 しかしそれは、決して無意味な価値ではないのではないか。「個の時代」を失敗と決めつけ「団結の時代」へと回帰するのではなく、「個の時代」の先に存在する、新たな時代へと進むべきなのではないか。そして、新たな時代を形作るためのヒントは、我々へ充分に与えられているのではないだろうか。「トウキョウソナタ」と「カウボーイビバップ」という、二つの作品によって……。

 

トウキョウソナタ」は、2008年に公開された、黒澤清監督による、家族の崩壊と再生を描いた群像劇形式の映画である。家族の崩壊と再生、というそのテーマは、極めて保守的であるものの、しかし私がこの映画を「新たな時代を形作るためのヒント」として挙げるのには、その再生の「在り方」と、再生した結果としての「家族」が、明らかにこれまでの家族像とは異質であるためである。

 まずはトウキョウソナタの概要を説明しよう。

 物語の中心を担うのは、佐々木家という、東京の住宅地に住む、ごく普通の一家である。佐々木家は父の竜平とその妻である恵、そして長男の貴と弟の健二で構成され、そこにはわずかながらではあるものの、父性が確かに存在していた。

 しかしある日、その父性が根拠を失ってしまう。竜平がリストラされたのだ。彼は父性の喪失を恐れ、失業をひた隠しにしたまま、会社へ出社する振りをしつつハローワークへと通い、就職活動をつづけた末に清掃員の職へ就くのだが、収入の激減はまかなえず、結果として家族には一連の出来事を伝えられないでいた。

 しかしそういった秘密を抱えながら平静でいられるほど、彼はしたたかではなかった。秘密を抱えた心は焦りを生み出し、焦りはその裏返しとして傍若無人な態度=父性を勘違いした家族への理不尽な締め付けとして表れ始める。

 当然、そのような振る舞いがうまくいくはずもなかった。息子たちは父親と激しく衝突した末に、大学生である貴はアメリカへ飛び立ち、小学生である健二は家出に踏み切った。さらには妻である恵が、清掃員として働く竜平と偶然鉢合わせることで、竜平さえも家から逃げ出し、その態度に腹を立てた恵までもが家から出てしまうことで、最終的に佐々木家は伽藍堂になってしまう。

 そこから佐々木家の再生の物語が始まるわけだが、しかしそこでは、例えば安易に想像できるような、家族の「大切さ」や「ありがたみ」などを描く描写は一切行われない。

 父である竜平は、逃走した先で車にひかれ、丸一日近く放置され、自ら目覚め、家に戻る。

 健二は家出の手段として、バスの荷台に紛れ込むことを選ぶものの、そのバスが到着した先であえなく発見され、警察に逮捕され、一晩留置所で過ごしたのちに、バス会社側の起訴取り下げによって解放され、家に戻る。

 母親は偶然知り合った男と海へ向かい、浜辺に立つ小屋で一晩を共にするが、翌朝目覚めてみると男の姿はなく、しばらく海を眺めた末に、家へ戻る。

 そして竜平は、かねてより健二が希望し、二人が衝突する原因ともなっていた音楽大学付属中学校への受験を許可し、ラストシーンはその受験風景――健二が受験会場で、ドビュッシーの「月の光」をピアノで奏でる――で幕を下ろすのである。

 以上が、「東京ソナタ」において描かれる、佐々木家の再生の物語である。

 佐々木家の再生の物語は、極めて淡々と描かれる。彼らが方々に散った先で、孤独を感じるような演出は見られても、家族の「温かみ」や「ありがたみ」について語るセリフや演出は皆無に等しい。しかしそれでも、映画のラストは――健二がピアノを弾き、両親がそれを見守るだけ、であるにも関わらず――感動に溢れている。

 恐らく彼らは個になることで、家族に対する盲目的な肯定性や、個であることに対する盲目的な否定性を、すっかり失ってしまい、その代わりとしての、新たな家族としての形態、あるいは、それを形成するための視点を手に入れたのだ。

 つまりはこういうことだ。

 かつて、佐々木家は誰もが、家族の価値を盲目的に信じていた。家族なのだから、家族を助けるべきであると考えていた。もっと言えば、親なのだから子を助けるべき、子なのだから親を助けるべきであるという、強固な考えを持っていた。だからこそ、誰も彼もが助けを求めた。そしてその結果として、家族は崩壊してしまった。

 しかしその崩壊は、全ての意味を無に帰すような崩壊ではなかった。その崩壊は、彼らにある発見を与えた。

 佐々木家の人間は方々へ散り、誰もが同じ個となることで、等しくなった。親や子や妻や夫という階級は、全て吹き飛んでしまった。それは、他者の視点の獲得だった。「互いが互いを思いやる」ということに対する、本質的な理解だった。誰も彼もが同じ個の立場に立ったからこそ、他の人間の孤独や無念を理解することができたのだ。

 強固な団結から、個としての緩やかな連帯へ。「助けられるべき家族」から「助けたい家族」へ。恐らくはこれこそが、彼らの獲得した新たな家族像、ないしは、それを形成するために必要な個としての視点なのである。

 と、ここまで読んできた読者は、一つの疑問を抱えているに違いない。兄の貴はどうなったのか、と。

 実は彼は、佐々木家には戻らず、アメリカにとどまったままなのである。それには以下のような事情が存在する。

 そもそも貴は、アルバイトに重きを置く大学生であり、しかし、その生活に虚しさを感じてもいた。そんな中で彼は偶然、アメリカ軍がイラクへ派兵するための、国外志願兵を募集していることを知る。彼はその後、テレビのニュースなどをもとに、日本に自分のやるべきことはなく、日本を守っているアメリカの戦争に参加することこそが自分のやるべきことだと考え、独自に応募し、保護者のサインが必要な入隊志願書を持って、竜平にサインを求める。竜平はこれを拒否し、その理由を並べるものの、それはとても貴へ届くようなものではなく、結果として後日、母親にサインを求め、母親もまたそれに応じることで、貴はアメリカへと飛び立つことになる。

 しかしその後、世界情勢が変化し、国外志願兵のイラク派遣は中止が決定される。そして貴は以下のような手紙を、アメリカから佐々木家へ送るのである。

「ご無沙汰しています。皆さん元気ですか。最近になって、僕はアメリカだけが正しいわけではないということを知りました。だからもう少しこの国に残って、この国の人たちのことを理解したいと思っています。そしてできれば、この国の人たちと共に戦って、本当の幸せを見つけることが、僕の進んでいくべき道だと考えるようになりました。どうか心配しないでください。僕は元気でやっています」

 これは貴がアメリカへ行くことで個になり、個の視点を獲得したことを示す、重要な手紙である。もしも貴が個になりながら個としての視点の獲得に失敗していれば、つまり「やはり個ではなく家族だ」と考えていれば、こんな手紙を送ることはせず、真っ先に日本へと返って来るだろうし、そもそも個になりきれていなければ、つまり、家族としての価値を信じながらも、救われないことに苛立っているのならば、手紙を送らず、しかし日本には帰らず、アメリカのどこかをさ迷い歩いていたに違いない。

 恐らく貴は、こう考えているのではないか。

 間もなく成人し、独り立ちしなければならない自分は、いったい何をなすべきなのかということについて、真剣に考えなければならない。そしてアメリカに残り、それを探求し、獲得することこそが――つまりは無目的に日本へ戻り、フリーターニートという将来を回避することこそが――個としての連帯=新しい家族の一員としての、最も優先すべきことなのではないだろうか。

 貴の手紙に対して、佐々木家が返事を送ったというような描写は無い。送ったのかもしれないし、送っていないのかもしれない。しかし送ったとしても挨拶程度のものであり、決して「戻ってこい」というような手紙ではないだろう。

 そう。個としての連帯=新しい家族において、個であることは、引き受けるべき対象であり、否定すべき対象ではないのだ。誰もが個であることを引き受ける。そして個からにじみ出る孤独や無力に蝕まれ、倒れそうな個が現れた時にのみ、手を差し伸べる。それこそが、個を接続する連帯の正体である。

 

 ただ、残念なことにこの「トウキョウソナタ」では、個としての連帯が、その後も実際にうまくいっているか否かという描写は無い。新たな連帯の可能性に、希望を抱かせつつ閉幕しているためである。

 そのため、この映画では具体的に「個としての連帯」を検証することができない。しかし私はその検証を「カウボーイビバップ」で行うことができるのではないか、と考えている。

カウボーイビバップとは、1998年から1999年にかけてテレビシリーズとして放送され、2001年には劇場版として放映されたSFアニメーション作品である。この作品の設定は膨大であるため、紙幅の関係上、本論に関係のないSF設定などの説明は割愛させていただくが、必要最低限に世界観を説明するならば、太陽系の星々に人々が住み、しかし文化レベルは現代とさほど変わらず、個人や企業の宇宙船によって星々の間を行き来することが可能になった世界、というところだろうか。

 主人公たち(スパイク・スピーゲル、ジェット・ブラック、フェイ・ヴァレンタイン、エドの四名)はその世界で、宇宙を旅しながら犯罪者を捕え、警察に連行し、警察がその犯罪者にかけた賞金を得る「カウボーイ」を生業としている。

 テレビシリーズでは、総集編を除けば全26話が放送され、その内容もサスペンスやホラー、コメディなど多岐にわたるのだが、一貫して描かれるのは、彼らの独特な関係性である。

 彼らは同じ「カウボーイ」を生業とする同業者として、ジェット・ブラックの所有する宇宙船「ビバップ号」に搭乗し、共同生活を送っている。しかし彼らの関係性は、単なる仕事仲間というわけではないが、しかし家族のようでもなく、その中庸にある関係性を、26話通して維持し続けている。互いに立ち入りすぎることなく、かといって放置するわけでもなく、倒れかければ手を差し伸べ、それで立ち直れば静かに手を引く。そんな関係である。

 その関係性が維持できるのは――テレビシリーズをリアルタイムで見ていた時は気づきもしなかったが――紛れもなく、個であることを誰もが引き受け、連帯しているためである。

 さらに興味深いのは、主人公たちが相対する犯罪者のほとんどが、個であることを引き受けられなかった、あるいは、個であることに耐えきれなくなった者――例えば戦争から帰還した兵士、例えば寝たきりの青年、例えば長期間放置されたAI――であるという点だ。そう、この作品は一貫して、個としての連帯をしている者と、個であり続けたために限界を迎えた者の対立を描き続けているのである。

 

 恐らくこのカウボーイビバップは今まで、クールでハードボイルドなフィクションとして、「実際にこんな関係性は作ることはできないけれど、もしもできたら楽しそうだね」というような、夢物語として語られてきたのだと思う。

 しかし今、そこへ辿り着くための道は示されている。

 トウキョウソナタが示している。

 我々は進むことができるのだ。

 団結ではなく、個でもなく、個としての連帯へ。

 昭和ではなく、プレ・ポスト昭和でもなく、ポスト昭和へ。

 過去ではなく、未来へ。

 

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