批評再生塾 道場破り 第四回「サスペンスフルな批評」へのぶっこみ原稿

 ピザは美味しい。

 どんな生地でも、どんなチーズでも、どんなソースでも、どんな具材でも、あらゆるピザはピザというだけで美味しくなるのだから凄い。

 そう、ピザは凄い。

 ピザはピザというだけで、人のテンションをアゲる。私は未だにピザが嫌い、という人間に出会ったことが無い。僕がピザを好きなのは当然として、味が濃いものがだめなうちのばあちゃんだってピザは食べる。タートルズだってピザが好きだ。うちの犬だってピザは食べる。もしかしたら、ピザが嫌いな生物はいないのかもしれない。そう考えると、恐ろしい。

 そう、ピザは恐ろしい。

 例えば食べ物を宅配するサービスにおいて、ピザの普及率、掌握率といったら、ほかの食べ物を圧倒している。というか、寿司にしろかつ丼にしろ中華にしろ、基本的に出前の存在するものは、オルタナティブの選択肢として、有名なチェーン店が思いつくし、そういう意味で出前を取るよりはチェーン店へ行った方が安く上がるというのがあるのだけれど、でもピザはピザだけのチェーン店というものの名前を思いつくことができない。そりゃあサイゼリヤでもパスタ屋でも基本的にピザを食べることはできるけれど、でもバリエーションやコストパフォーマンスにおいて、サイゼリヤやパスタ屋は完全に負けてしまっている。ようするに、「寿司を食べたい」という感情を解消するのにあり得る選択肢として「スシロー」にするか、出前にするか、あるいは高級な寿司店にするかという選択肢が存在するのに対して、「ピザが食べたい」という感情を解消するには「出前」しか、ほぼほぼ存在しない、ということだ。安いし。

 そう。ピザは安い。

 ピザの出前を取るときに、少しだけでいいから、値段と材料とそれが届くまでの時間というのを意識して、覚えておいてほしい。そして、週末の暇な時間でいいから、同じピザを作ってみてほしい。きっと驚くはずだ。ピザを作ることは大変で、金がかかるということに。ピザ生地をこねて、広げて、ソースを作って、具を切り分けて、焼いて、食べるまでに、慣れてなければ二時間近くはかかるだろう。そして材料費だって、2000円近くかかるんじゃないだろうか? それなのに、Dominoピザだったりピザポケットだったり、とにかくピザのチェーン店は、ピザを1000円から3000円の間で販売して、しかもそれを30分から40分の間で家まで持ってきてくれる。どこをどうすればそれが実現できるのか、僕にはまるで理解できない。大量購入による原価の圧縮であったり、冷凍による加工時間の圧縮であったり、とにかく、ものすごい工夫があのピザには施されているに違いない。そしてそれを知るには、つまり、自分が食べている物のもの凄さやカラクリの存在を知るには、自分で作ってみるしかない。ぜひ一度ピザを作ってほしい。そうすれば、驚きが次々と押し寄せてくるはずだ。

 そう。ピザは驚きに満ちている。

 具材がばらまいてあるせいで、一口食べ進めるごとに味が変わる。最近ではピザの耳にチーズを入れてあったりもする。そして、一つのピザでさえ驚きに満ちているのに、例えばポストに投函されるピザ屋のチラシを見れば分かるように、ピザの種類は無数に存在し、そしてそれは年中入れ替わっている。その店のレギュラーメニュー以外が好きな人は、基本的に気を抜かない方がいい。それがあるうちに食べた方がいい。メニューは年中入れ替わっていく。次に注文する時、そのメニューが存在しないことなんてざらにある。その時の悲しさったらない。

 そう、ピザは悲しい。

 僕は未だに中学の時に食べた「ラタトゥイユ・ピザ」の味が忘れられない。本当にもう一度、一度だけでいいから、あれが食べたい。でも、もう食べられない。僕のチェックに抜けが無ければ、「ラタトゥイユ・ピザ」を販売していたPIZZA・Californiaは、もう十年以上「ラタトゥイユ・ピザ」の再販を行っていないはずだ。ラタトゥイユ自体は大して珍しい料理ではない。ラタトゥイユは自分でも作ることができるし、フランス料理屋にだってメニューで出している場所はある。でも、どこに行ってもラタトゥイユ・ピザは売っていない。ラタトゥイユをピザにしよう、という発想は、あの時期のPIZZA・California以外に存在していない。恐らくは今後も、あれを販売する店は存在しないだろう。そして僕は、今後一生あれを口にすることができないだろう。もちろん、再現することもできない。何度も挑戦したけれど、どうやってもあの感動は手に入れることはできなかった。

 そう、ピザは思い出と結びついている。

 基本的にピザは「何かをしながら食べる」食べ物だ。僕のようなピザ狂いは脇に置いておくとして、基本的にはゲームをしながら、テレビを観ながら、誰かと会話しながら、食べるもののはずだ。そしてそうである限り、ピザには、というよりはピザを食すというその体験には、日常的な物とは別の何かが自然と紛れ込んでしまう。朝に鮭を食べるのとは全く異なった食体験がそこには存在している。

 もしかしたら、そうじゃない、という人もいるのかもしれない。ピザは「何かをしながら食べるものじゃない」という人も、もちろんいるだろう。でも、考えてみてほしい。例えば「一蘭」のようなカウンターでピザを食べて、はたしてピザを美味しいと思えるだろうか?

 そう、僕たちはピザに向かい合うべきじゃない。

 ピザは確かに素晴らしいけれど、でも、ピザの素晴らしさはピザにだけ存在しているわけでは無い。ピザには本当にいろいろなものが詰め込まれているけれど、でもそれがピザ体験のすべてではない。唯物論的にピザを見てはいけない。実存的にピザを見てはいけない。もっと包括的にピザの事を見なければいけない。ヴィルチュエルなピザ体験を無視してはいけない。郵便的なピザの効力を無視してはいけない。もっと様々な視点を持つべきだ。そうするだけで、ピザは今以上のピザになる。誰もが今以上にピザの素晴らしさに気が付くはずだ。

 そう。ピザは誰にでも訴えかける。

 ピザを嫌いな人間はいないから、ピザを食べる枚数は限られている。特定の人間が満腹でもない限り、ピザは等しく食べられる。少なくとも僕は「余ったピザ」以外が何者かへ譲られている場面に出くわしたことが無い。例えば「豚肉はくどいから嫌い」という人が、弁当に入っている豚のしょうが焼きを誰かへ譲っていたり、「キュウリはカメムシの匂いがする」と言って定食のサラダに入っているキュウリを誰かへ譲っているのと同じように、「ピザは苦手だから」といって、そもそも食べない、という人間を僕は知らない。僕の周りには米が食べられなかったり、牛肉が食べられなかったり、魚が食べられなかったり、とにかくさまざまな偏食の人間が集まっているのだけれど、不思議なことにピザは誰もが食している。

 そう。ピザは本当に不思議だ。

 基本的にピザに必要な材料と言うのは、生地(要するに小麦粉)とチーズのみだ。それ以外は何でもいい。野菜炒めだろうが、焼き肉だろが、餅だろうが、明太子だろうが、焼鮭だろうが、ホタテの貝柱だろうが、本当に何でもいいのだ。そしてそういう意味では下品な食べ物だ。適当に余っているものを乗せて焼けばできてしまうのだから。そしてなにより、手でつかんで食べるのだから。でもピザを下品とおもう人間はいない。上品と思う人もそこまでいないだろうけれど。もしかしたら誰もが、ピザの下品さには目をつむっているのかもしれない。ピザは確かに下品だけど、とにかくうまいから仕方ないよね、とでもいうような感じで。

 そういう意味で、ピザはライブに似ている。

 例えば好きなロック・スターのライブにファンが集ったとして、そしてそのファンがバカ騒ぎをしているとして、その馬鹿騒ぎをしているファンは、平常の視点からすれば、下品だ。でも、誰もがそれを許しあっている。何故なら自分だって下品になりたいからだ。ようするに、ライブ会場には、下品になりたい、そして、下品であることを許す人間の集いなのだ。そして、誰もが率先して、下品になる。下品な体験を共有する。まるでピザのように。

 だからもし、今度ピザを食べるときは、よく目を凝らしてみてほしい。

 そこには、ぼんやりとではあるが、壁が見えるはずだ。

 ライブ会場と同じ、ピザ会場としての壁が。

 そしてその会場を出た、数日後、数か月後、数年後に、その会場に居合わせた人間と再開したとき、再び、よく、目を凝らしてほしい。

 その人間と、自分とを囲う、奇妙な壁が見えるはずだから。

 でも、別にその壁が見えたからと言って、怖がることは無い。

 誰にでも、何かしらの壁は見えている。君はそのうちの一枚を発見したに過ぎない。

 別にそれを発見すること自体は、特別なことじゃない。

 でもまあ、その壁自体は特別なものだから、大切にした方がいいとは思うけれど。

 さて。

 それではピザの話に戻ろうと思う。

 ピザは――