ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第三回「『ポスト映画の世紀』に、『映画(批評)』は再起動できるか」へのぶっこみ原稿

何故キャメロンは映画を構造化したのか――物・事から見る映画の座標――

 

 映画は奇妙だ。

 例えば写真や絵画は瞬間を切り取ることで、その前後の物語や、その場の空気などに対する想像力を喚起させる。そして例えば小説は、あらゆるものを文字のみで表現することで、人物や風景などといった様々なモノの形状や質感に対する想像力を喚起させる。

 そしてそれらの、観客に対する想像力の喚起は、観客の内部に写真や絵画や小説をたたき台にした世界を創造させる。そうして観客は、作品へ(正確に言うならば、作品を材料にして創り上げた各々の世界へ)没入することとなる。そう、作品によって喚起された想像力というのは、作品によって召喚された別世界への扉、と言い換えることも可能なのだ。

 しかし他方で、映画はそれらの想像力を積極的に抑制する。物語の初めから終わりまでをパッケージングすることで、物語の前後に対する想像力を抑制し、人物や風景などといった様々なものを画角に収めることで、それらに対する想像力を抑制する。それだけではない。音楽を流すことで、その場の空気感に対する想像力を抑制し、場合によっては登場人物に独白させることで、登場人物の心理に対する想像力さえも抑制してしまう。つまり、写真や絵画を鑑賞したときや、小説を読んだときに現れるような扉は、映画においては決して召喚されないのである。そうして観客は、一切の寄り道を許されることなく、映画の中核に存在するメッセージへと一直線に導かれる。

 しかし、にもかかわらず――そしてこれこそが、私が「映画は奇妙だ」と感じる原因なのだが――我々は映画を観賞することで、想像力を喚起される。我々は決して、ただ受動的に、スクリーンに映し出された映像を享受するということができない。それらの情報は我々に内在する想像力を呼び起こし、我々へ――絵画や写真や小説などによる想像世界とは全く別の――何かを見せている。

 一体それは何なのであろうか。

 我々は映画を観ながら、並行して、いったい何を見(せられ)ているのだろうか?

 

 結論から述べるならば、我々は映画で見たものを「引き下ろした」架空の自分の人生を見ているのである。

 どういうことか。

 今日では、映画の定義も様々なものへと分岐しており、なおかつそれぞれに「一理ある」ために、特定の立場をとることは非常に困難であるが、とりあえず「映画を構成するために最低限必要なもの」という問いに対しては「映像、物語、観客」と答えることができるであろう(音楽は、映画の出自からして、そもそもは無くてもよいものである)。

 そしてそもそも映像というメディアは、非情に素朴に定義するならば「目の前に存在しない物・事を存在させる」メディアである。例えば部屋に自分とディスプレイのみが存在するとして、そのディスプレイにリンゴが映れば、それはリンゴをある意味で現前化させることになる。

 しかし他方で――これまた非常に素朴に考えれば――現実にはリンゴは存在しない。リンゴの映像(=記号)が存在するだけである。そしてディスプレイにリンゴが登場したその瞬間から、我々はさまざまな想像を膨らませるわけであるが……しかし、映画はその想像を抑制する。

 何故か。それは、そこに「物語」が存在するからだ。

 映画に物語が存在する以上、そこへ登場するリンゴには何かしらの役割が与えられていることになる。それが主人公の空腹を満たすのであれば、リンゴは食材としての、それが拳銃によって撃ち抜かれるのであれば、リンゴは的としての役割を持つ。

 そして仮に、主人公がそのリンゴを食べて空腹を満たした場合、我々は、リンゴが銃で撃ち抜かれる姿、という想像力を抑制されることになる。結果として我々は、主人公がリンゴを食べる姿を見て、空腹を感じるわけであるが……しかしその場合、我々は決して主人公に感情移入しているために、空腹を感じるのではない。なぜならば本当に我々が主人公へ感情移入していた場合、我々が感じるべきなのは空腹ではなく、空腹が満たされる快楽であるべきだからだ。

 それでは何故、我々はリンゴを食べる映画の中の主人公を見て、空腹を感じるのかといえば、つまるところそれは、我々がそれを見ることで、リンゴを食べる我々の姿を想像してしまうからに他ならない。つまり、我々は映画を観つつ、その向こう側に、我々へこれからやってくるかもしれない、もしくは、やってきていたのかもしれない架空の人生を想像し、それと現在とのギャップを体感するのだ。

 ようするに、我々は映画を観ることで「架空の人生としての」想像上の世界を創造し、映画の中から「物・事」をそこへ引き下ろし、そこに「アイデア」というレッテルを貼り付け、留保し、そして「アイデア」の内容によっては映画館から出たその瞬間に、現実の世界へとさらに引き下ろすことを欲望している、ということになる。

 例えばアップルウォッチを考えてみてほしい。アップルウォッチはつい数十年前まで「時計型通信機」というような名を冠した架空のデバイスであり、それを使用できるのはジェームズ・ボンドなどの、スクリーンの中に存在する、限られた存在のみだったはずだ。そういった観点から見れば、アップルウォッチは「想像上の空間へ引き下ろされ、留保され続けたアイデア」と呼べないだろうか?

 と、ここで勘のいい読者ならばこう考えるだろう。「それは果たして、映画のみの特権なのだろうか?」と。

 確かに架空の物体を描く、ということは、絵や小説でも可能である。しかし他方で、そこにはコンセンサスが存在しない、という重大な欠点がある。例えばアップルウォッチらしきものを絵に描いたとして、それを見た鑑賞者が百人いれば、百人分の「想像上のアップルウォッチ」が存在する(ある者のアップルウォッチは音声のみの通信しかできないかもしれないし、ある者のアップルウォッチは、3Dホログラフィが飛び出すかもしれない)。そしてそれは小説においても同じである(ある者はリストバンドサイズのアップルウォッチを想像するかもしれないし、ある者は通信を行う際に、アンテナを立てるかもしれない)。そしてコンセンサスが存在しない限り、我々は決してアップルウォッチをこの世界へ引き下ろすことができない(誰かがアップルウォッチを作ったとしても、誰もが「考えていたのと違う」と言うに決まっている=引き下ろせていない)。

 そして、次のような疑問を抱く者もいるだろう。「それは果たして、映画と関係のあることだろうか? 映像であれば何でもいいのではないだろうか?」。

 その疑問を解消するためには「ミス」という一つの座標軸を導入しなければならない。

 

「ミス」を軸にして映画をみたときに、ちょうど真逆の座標に位置するメディアが、一つだけ存在する。それは「テレビゲーム」である。

 ここで思い出してほしいのは、私が先に述べた「映画に最低限必要なもの」の内容である。私はそれを「映像、物語、観客」と述べた。しかしその要素はそのまま、「テレビゲーム」へと転用することが可能である。テレビゲームは「テレビ」を使用して遊ぶ以上、映像と観客(であり演じ手でもあるプレイヤー)の存在は不可欠なものである。また、その多くには物語が付されている。例えば「ファイナルファンタジー」シリーズや「ドラクエ」シリーズなどに代表されるロールプレイングゲームなどはもとより、「ストリートファイター」シリーズなどに代表される格闘ゲームや、「ぷよぷよ」などに代表されるパズルゲームなど、ゲームのシステム上、本来必要ないはずのジャンルですら「ストーリー」が――「テトリス」などといった稀有な例を除けば――実装されている。そして映画と同様、音楽は、必ずしも必要なものとは呼べない(例えば深夜に、親へばれないように音を消してゲームをプレイした経験が、諸君にはないだろうか?)。

 このように、映画とテレビゲームの構成要素はほぼ同じであり、ゆえに親和性が非常に高い(例えば「メタルギアソリッド」シリーズで名高い、小島秀夫監督が、それを如実に体現している)。しかし、映画とテレビゲームがいまだ完全に一体とならず、それぞれが独立性を保ち続けているのは、その両者の「ミス」に対するスタンスが、真逆であるためである。

 どういうことか。

 テレビゲームとは、大まかに説明するならば、いくつかに区分けされた課題(それはしばしば「ステージ」と呼称される)のすべてをクリアすることを目的としている。そしてひと区画の最中にミスを犯した場合は、その区画の最初からやり直さなければならず、その区画をクリアしない限り、次の区画へと進むことはできない。つまりはミスを犯し続ける限り、プレイヤーはその物語を終えることができないのである。

 他方で映画はどうか。ほとんどの映画では、主人公、ないしは脇役の何者かがミスを犯すことが、物語を進めるための条件となっている。なぜならば映画において、ミスが発生しない限り問題が生成されず、問題が生成されない限り主人公は平凡な生活を送り続け、待てど暮らせどエンディングがやってこない、ということになるからだ。

 そう、テレビゲームが「ミスを犯し続ける限り進まない」という構造を持っているのに対して、映画は「ミスを犯さない限り進まない」という構造を持っているのだ。

 しかし、真逆の構造を持っているにも関わらず、両者によって示されているものは全く同じである。ようするに、テレビゲームや映画がそこで提示しているのは「ミスの乗り越えの物語」なのだ。つまり、テレビゲームは観客に、ありうべき「ミスの乗り越えの物語」を創造させ、他方で映画は観客へ、完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験をさせる、という方法論を取っている。そしてその違いによって、テレビゲームと映画の独立性は保たれていた。

 しかし今、その独立性は、特に、映画の独立性は、解体されようとしている。ネット動画――とりわけ、ニコニコ動画における、ゲーム実況プレイ動画の台頭によって。

 

 そもそも「完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験」という観点でいえば、テレビにおけるドラマやドキュメンタリーなどにもその側面があった。しかしそれでも、それが映画的であり続けたのは「二時間近く客を拘束できる」=「ミスの乗り越えの物語を、初めから最後まですべて体験させられる」ためである。そう、テレビはいつでも離脱が可能なため、その効力は明らかに映画よりも低いのだ。

 もしかすれば、「ゲーム実況プレイ動画も同じこと」と思う者もいるのかもしれないが……しかしその前に、ゲーム実況プレイ動画について、説明しておこう。

 ゲーム実況プレイ動画とは――詳しい分析については、村上裕一の著書「ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力」に記してあるので、そちらを参照してほしい――簡潔に述べれば、実況者(=ゲームのプレイヤーであり、動画の投稿者)がゲームをプレイし、そのプレイと、ゲームに対する実況者の実況を視聴者が楽しむ、というスタイルの動画である。注意すべきは「実況」という言葉であり、それは例えば野球やサッカーの中継放送において我々がよく耳にするような実況ではない、ということだ(ただし、逆説的な効果を狙って、それを真似した例外は、少ないながらいくつか存在する)。ここでいう実況という言葉が意味しているものは、いわゆる「リアクション」である。実況者の「リアクション」は多岐にわたり、ホラー演出に対する絶叫から、奇妙なキャラクターや演出に対するツッコミ、まるで的外れな推理、あるいはゲームとはまるで関係のない日常の愚痴に至るまで、様々なものが存在する。

 さて、ここで重要なのは、視聴者が何を楽しんでいるかである。実況者の実況=リアクションは確かに再生数を伸ばす重要なファクターではあるものの、そこへ重点を置くあまり、プレイが雑になると、動画は基本的に“荒れて”しまう。実況=リアクションによって視聴者を楽しませながらも、誠実にゲームをプレイし、クリアする、というその態度が、多くの視聴者を掴んでいることは、例えば百万再生を優に超えている動画をいくつか見れば、容易に分かることである。

 ここで思い出してほしい。ゲームはミスを許さないという構造を持つ。しかし我々人間は、ミスを犯す生き物である。そして、ゲーム実況プレイ動画において画面に映されるのは、ゲームそのものではなく、実況者によるプレイであり……そう、つまり視聴者は、実況者がゲームをクリアするまでの間、半強制的に「完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験」をすることになるのである。

 しかしここで重要なのは、その「半強制的」という言葉の意味が、テレビとは明らかに異なっている、ということである。

 例えばテレビは、一度離脱してしまえば、再放送されない限り、基本的には戻ることが不可能である。しかし他方でゲーム実況プレイ動画は、それがネット上にアップロードされた動画であるがゆえに、いくつかの例外――著作権違反による企業側の削除、あるいは実況者による自主的な削除――を除けば、基本的には戻ることが可能なのである。

 今日において、ゲーム実況プレイ動画、および実況者の影響力は非常に大きい。それは例えば、ゲームメーカーがプロモーションを兼ねて実況者へ「公式実況」を依頼する、というその行為などにも表れている。そして、その影響力がこれほどまで大きくなった原因に、ネット独自の構造(=半強制性・回帰性)と、映画的なもの(=完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験)が存在していることは、もはや否定のしようがない事実である。

 

 さて、私は本論の冒頭で「映像というメディアは、非情に素朴に定義するならば「目の前に存在しない物・事を存在させる」メディアである」と述べた。しかしこれまで見てきたように、映画における「事」(=完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験)の存在は、ゲーム実況プレイ動画によって広く拡散されることで、その軸足を「映画的なもの」から「動画的なもの」へと、移してしまっているのである。

 それでは「物」に関してはどうだろうか?

 例えばニコニコ動画では「作ってみた」というタグがつけられた動画は無数に存在し、Youtube上にもそれに類する動画は存在している。そしてそれらの中には確かに、高い再生数を誇るものも存在する。しかし少し検索していただければ分かるように、そこで作成されている物の多くは、未知なる物ではなく、既に存在するアイデアの具現化なのである。

 何故このような現象が起きているのか。その答えは、ネットという構造に存在している。

 そもそも動画を録画し、公開する以上、そこには「多くの人に知られたい」という欲望が必然的に働いている。しかし、個人の制作物が多くの人に知られるには、その制作物が、知名度を持つものでなければならない。何故ならば、ネット動画へアクセスする方法の大部分は検索に依存しており、そしてほとんどの人が検索ボックスへ入力する言葉は「知っている言葉」だからである。

 すなわち「未知なる物を発明し、ネットへ公開しても、意味が無い。何故ならそこへ辿り着くためのチケットを、誰も手にしてはいないのだから」というこのネットの構造が、ニコニコ動画、およびYoutube上の動画には強く影響し、だからこそ、映画の中に登場したギミック(例えばライトセイバー)や、料理(例えばスタジオ・ジブリのアニメーションに登場する料理)の再現動画を溢れかえらせているのだ。

 しかし逆に言えば、この状況は、映画の独自性を保っていることの証明材料になるのではないか。

 

 例えば私は、映画を見た際に鑑賞者に起こる現象を「「架空の人生としての」想像上の世界を創造し、映画の中から「物・事」をそこへ引き下ろ」すと述べた。そしてそれに対する一つの批判として「それは果たして、映画と関係のあることだろうか? 映像であれば何でもいいのではないだろうか?」というものを想定した。

 しかしこれまで見てきて明らかなように、映像であれば何でもいいというわけではないのだ。確かに「事」の側面では、ネット動画でも映画と同様の効果が得られるだろう。しかし少なくとも「物」において、映像、とりわけネット動画は、ネットに公開するというその目的上、「物」はすでに想像上の空間、それも多くの人が共有している想像上の空間に引き下ろされていなければならない。すなわち、ネット動画において未知なる「物」を人々へ提供することは、原理的には可能だが、しかし現実的には不可能なのである。

 そしてそれは、テレビにおいても基本的には不可能である。

 例えばドラえもんについて考えてみよう。ドラえもんはこれまで数多くの話数が放送され、そこには数多くのひみつ道具が登場してきたが、しかし、我々はそのうち一体いくつのひみつ道具の名前とその機能を挙げることができるだろうか? これは私の主観的な予想でしかないが、一般的には十個前後、ニ十個以上列挙できれば大健闘、というところではなかろうか。

 それでは何故このようなことが起きるのかといえば、それは「あまりにも数が多いから」ではなく、「番組があまりにも「物の提示」を優先しすぎているから」である。ドラえもんは三十分番組であるが、二部構成であり、それらは全く別のエピソードであるため、異なるひみつ道具が登場する。そうして短い時間の中で、毎週二つのひみつ道具が次々と提示され続けるために、我々はそれらを映像の中から想像世界へ引き下ろす(=使っている姿を想像する)、というそれまでの作業が中断されてしまうのだ。そして逆に言えば、我々がドラえもんひみつ道具を幾らかは思い出すことができるのは、それが長期間にわたって繰り返し登場したために、想像世界へ引き下ろす作業が完了したからに他ならない。

 そう。映像の中に存在する未知なる「物」を想像世界へ引き下ろすには「拘束力を持ったそれなりの時間」が必要となるのだ。

 そしてそれを、映画は持っている。

 

 再び本論の冒頭にて提示した設問と、それに対する結論へと戻ろう。

 設問はこうであった。

「我々は映画を観ながら、並行して、いったい何を見(せられ)ているのだろうか?」

 そして結論はこうであった。

「我々は映画で見たものを「引き下ろした」架空の自分の人生を見ている」

 これまでの考察から分かるように、この結論は不完全なものである。なぜならば、この結論は「我々が見ているもの」への解答であり、「我々が見せられているもの」=「映画が我々へ見せているもの」への解答ではないからだ。

 しかしその解答も、既に導き出されている。それは、こうだ。

「映画は我々へ、未知なる物を見せている」

 そしてこれこそが、現代における、映画が映画的であるための条件である。

 これまではそうではなかった。なぜならば、映画は我々へ「未知なる物・事」を見せることが、映画的であるための条件であったからだ。すでにお分かりのとおり、物は具体的な物質――ギミック、モンスター、マシーン、など――を、そして事はストーリーを指す。

 これまでは「事」の変奏でやってくることができた。しかし映像における「事」がネット上へ無数に拡散され、無限に近い変奏が奏でられてしまった今、「事」は映画を映画たらしめることはできない。

 映画を映画たらしめることができるのは、「物」のみである。

 

 この結論が、いったいどれくらいの普遍性を帯びているのか、また、どれくらいの強度を持っているのか、私には判断がつかない。しかしこれが、ある一つの事柄を理解するために必要となる、重要な補助線になるであろうということだけは、確信している。

 それは、ジェームズ・キャメロンの作家性である。

 キャメロンはこれまでに、無数の「未知なる物」を生み出してきた。恐らくキャメロンは、数十年前から映画における「物」の重要性に気づいていたのだ。だからこそ、映画における「事」に対する作業量を最低限にとどめるべく、「事」の「型」を作り出したのだ。

 確かにそうやって作り出された「型」は、傍から見れば「物語よりも構造が先行している」ように見えるのかもしれない。あるいは「ハリウッド映画からたんなるアメリカ映画へ」という凋落とも見えるのかもしれない。

 しかしキャメロンは、もしかすれば、「物」の重要性に気が付くことで、そのネガとしての、「事」が失われる未来を予感していたのではないだろうか。そしてキャメロンは幾度も、そして今でも、映画を再起動させ続けているのではないだろうか。

 そう、恐らくキャメロン的な「物の映画」は、未知なる物=未来と現在とを繋ぐ、一つの扉に他ならず、そして批評に求められているのは、そうして現れた扉の理論的な引き下ろしに、他ならないのだ。