批評再生塾 道場破り 第五回「誤読、誤解、行きちがい、失敗を考え直す。しくじりの効用を論じて下さい。」へのぶっこみ原稿

音楽は環境に従う――音楽における、モ、モノ、モノミ――

 

Track1:Overture

 もちろん私は今でも、音楽が好きです。コアなファンというわけではありませんが、だからといってそう簡単に「音楽好き」の看板を下ろすことはできません。

 しかし、何故だかはわかりませんが、私はいつからか、新しい音楽を発掘することに対して情熱が持てなくなってしまいました。今でもいくつかのCDやデジタルコンテンツを購入してはいますが、しかしそれを「惰性で買っているだけでしょう」と指摘されたときに、私は強く否定することができません。

 かつてはそうではありませんでした。私の内には確かに、音楽を摂取することに対して、情熱が存在していました。新たなアーティストと出会ったときに感じる喜びを求めて、常に音楽へ働きかけ続けていました。これまでに音楽へ注ぎ込んできた時間や金が、それを裏付けています。HMVヴィレッジヴァンガードで新譜を買い、ディスクユニオンで中古品を買い、クラブでDJのミックスCDを買い、次々と消費していった思い出が、それを裏付けています。過去に幾度となくCDを交換した友人たちが、それを裏付けています。

 しかしいつからか、ぱったりとそれらがなくなってしまいました。

 それは何故なのでしょう? そして、いつからなのでしょう?

 これまでにもぼんやりと、それについて考えたことはありました。しかし、だからといって深く考えることはなく、そして結論も出ないままでした。大学を卒業し、働き始めたせいで、それについてしっかりと考える時間が無かったからです。

 しかし、今回この課題に取り組むにあたって、それについて正面から向かい合い、深く考えることで、一つの結論がでました。

 私はそもそも、音楽に対する興味を、これっぽっちも持ち合わせてはいなかったのです。

 

Track2:モ

 そもそも、私の中に存在していた音楽への姿勢は「模」でした。

「模」の読みには「も」と「ぼ」の二通りが存在しますが、旧字体で「模」は「糢」であり、その場合の読みは「かた」あるいは「のり」となります。そして「かた」の場合は「形状、形、ありさま」を意味し、「のり」の場合は「手本、モデル、学ぶに値する先人」を意味しています。また、「模」の使用例も「模楷、模擬、模型、模糊、模傚、模刻、模索、模写、模造、模即、模範、模倣、模本、模様」となっており、一部の例外を除けば、模は真似ることを意味し、それに続く文字はその形態を示している、という形式が主流と言えます。(※1)

 つまり、私の音楽に対する「模」的な姿勢というのは、端的に述べるならば、音楽に対して受動的、あるいは消極的な立場にあった、ということなのです。

 例えば、私は幼少期よりヴァイオリンを習っていましたが、それは果てしなく続く「模」の反復作業でした。

 また、私は友人との話題作りのために音楽を聴いていましたが、それも、話題になる音楽を選ぶ=誰かが聞いている音楽を参考にする、という視点において「模」なのでした。

 私が話題作りを目的として音楽を聴き始めたのは、高校時代のことでした。それまでは、一切音楽を話題にせずとも日々を送ることが可能でした。漫画やアニメやゲームの話題をしていれば事足りました。しかし高校へ進学したその瞬間から、それらを話題にする人間がいなくなりました。仕方なく、私は音楽を聴き始めました。

 私が聞き始めた音楽は、HIPHOPでした。当時、HIPHOPは既にアングラからメジャーへの移行を終えていました(キングギドラによる、DragonAshのkjや、RIPSLYME、KICK THE CAN CREWに対するDISが、それを象徴していました)。HIPHOPは、話題としての機能を十分に有していました。

 ただ、不思議なことに、単なる話題作りとしてしか興味を持っていなかったHIPHOPに、私は自然とのめりこんでいきました。とはいえ、クラブへ出入りする勇気はありませんでしたので、のめりこむといってもたかがしれたものではありましたが、しかしそれでも、私は書店やCDショップで購入できるあらゆるものへ、限度額いっぱいの小遣いを投入していきました。

 

Track3:モノ

 HIPHOPの世界へ没入していくうちに、私の興味は消費から創造へと移っていきました。すなわち、ただ物を購入して享受するだけではなく、その制作に携わることで、HIPHOPへの理解を深めたい、と考え始めたのです。

 そういう点で、大学に進学した私が、ストリートダンスのサークルに入ったのは必然と言えました。

 HIPHOPにはいくつかの構成要素があり、その要素については人によって諸説紛々あるのですが、もっとも一般的な構成要素を挙げると、「RAP」「DJ」「GRAPHITY」「BREAK DANCE」の四つになります。そして、私が進学した大学に、サークルとして存在するのは、ダンスしかなかったのです。

 ダンスは、二つの点で私に、音楽の理解を深めさせました。

 一つめは、音の質感でした。

 ダンスをするうえで、音を無視して踊ることはできません。音に乗って踊ることが……もっと踏み込んだ表現をするならば、体から音が生まれているように見えるような踊りをすることが、重要になってきます。そのためには、その音がどういった質感を持っているのか、ということを深く理解しなければいけません。のっぺりとした音、乾いた音、はじける音、震える音……音には様々な表情が存在し、それを具体的な形で、なおかつ、誰もが思いつかなかったような表現をする。その、ある意味で大喜利的な表現こそが、ダンスの醍醐味と言えます。

 そのためには、かなりの「積極的」な音楽の視聴が必要となります。単に視聴するだけでなく、一つ一つの音が、どういう音であるかを分析しなければならないのです。それは非常に手間のかかる作業でしたが、しかし他方で、そこに存在する音の意味を発見することができる、重要な作業でもありました。

 さて、ダンスが私にもたらした二つめの理解は、曲の構成でした。

 ダンスのショーケースを行う際に、選んだ音楽を無編集で使う、ということはほぼありません。通常、イベントの運営側からは3分~5分の時間を与えられ、ダンサー側はその中で世界観を表現するために、2曲から3曲を編集してつなげ合わせたものを使用します。すなわち、一曲あたりの時間を短くするために、編集作業を行うのです。

 私はその編集作業にも携わっていましたが、そこでは驚きの連続でした。編集作業は、楽曲の構成に対する理解を深める、素晴らしい機会になりました。それはある意味で、作曲者との無言の会話に近い、と私は考えています。すなわち、この楽曲において最もやりたかったことは何なのか、曲を自然に展開させるために行った工夫は何か、どういう順序で曲を組み立てていったのか、どこに苦悩が集中しているのか、というようなことが、不思議と理解できるようになるのです。

 例えば、楽曲を建築物、視聴者を鑑賞者とした場合、ただ楽曲を視聴することは、その建築物の表面を見て回ることにほかなりません。しかし編集作業は、その建築物の設計図を手にしながら鑑賞するということに等しく、それゆえに鑑賞者は、その裏側に存在するあらゆるものが透けて見える、ということなのです。

 このようにして、私は楽曲に対する理解を深めていきました。しかし考えてみれば、これは不思議な体験でした。なぜならば、私における楽曲への理解は、ただ単純に楽曲を視聴した場合よりも、何らかの、楽曲自身とは別の場所に目的が設定された場合の方が、はるかに深めることがでたのですから。

 すなわち「踊るため」であるとか「短く編集するため」という、ある意味では楽曲の外側に設定された目的が、逆説的に私を楽曲へと向き合わせ、と同時に、それらの目的を達成するためには、ダンスの振り付けや、編集という意識をいったん排し、楽曲そのものをしっかりと理解しなければならない、というように、状況が変化していったのです。

 それは要するに、様々な関係性の中に存在していた楽曲を、一旦取り出して吟味する、ということであり、言い換えるならば、楽曲を単体として――monoとして――扱う、ということなのでした。

 

Track4:モノミ

 話題のために、ダンスのために、編集のために、という様々な条件がはがれ、ただ単純に音楽を求めるようになったのがいつのことなのか、私にはわかりません。

 しかし恐らく、その原因もダンスにあったのだと思います。

 そもそも、私が聞く音楽のジャンルをHIPHOPから解放したのも、ダンスでした。

 ダンスはHIPHOPを構成する一つの要素ではありますが、しかし、ダンスに使われている楽曲のジャンルは、多岐にわたっていました。ジャズ、ビバップ、ファンク、テクノ、ハウス、ブレイクビーツ……。私は友人と、先輩と、後輩と、サークル外の人間と、様々な楽曲を交換していきました。

 そしていつしか、私は「より聞いたことのない音楽」を求めるようになりました。

 何らかの目的のために音楽を求めるのではなく、音楽を聴くという目的のために音楽を求めていました。

 より聞いたことの無い音楽を聴くためには、「ジャケ買い」が最も効果的でした。Steve ReichTUJIKO NORIKOThe White Stripesに出会ったのも、この手法を用いはじめてからの事でした。私はありとあらゆるジャンルを、まるで物見高い観光客のように横断していったのです。

 

Track 4:音楽は環境に従う

 大学を卒業した私は、実家へと戻り、職場と実家を往復する生活を送るようになりました。

 そしていつしか、私は新たな音楽を求めなくなりました。

 当然、音楽は聞き続けていましたが、しかし、これまでに出会ってきた音楽だけで、やりくりするようになりました。

 CDショップに通わなくなり、デジタルコンテンツを探すこともしなくなりました。

 好きなアーティストの新譜が出た場合にのみ、アマゾンで買うようになりました。

 そして私はふと、気が付きました。

 すべてがもとに戻ったのだ、と。

 小・中学生の頃のように、私の生活から再び、音楽が必要なくなったのだ、と。

 そう。私の音楽に対する興味は常に、内発的なものではなく、外圧によって生み出されたものでした。

 高校時代にHIPHOPを聞いていたのは、多くのクラスメイトがHIPHOPを聞いていたからでした。

 大学時代に様々な音楽へ触れていたのは、サークルの人間もまた、様々な音楽へ触れていたからでした。

 そして今、私が新たなアーティストを求めていないのは、恐らく、家でも、職場でも、誰もがそれを求めていないからなのでしょう。

 そう。私の音楽に対する興味は、気持ちは、愛は、その程度のものだったのです。

 そして、いずれ私は、あらゆる音楽が、不要になるのでしょう。

 かつて、そうであったように。

 

Bonus track:Michael Jordan

 しかし、こうも言うことができるでしょう。つまり「今、私が新たなアーティストを求めていないのは、職場の人間が新たなアーティストを求めていないからに“過ぎない”」と。

 そう。私はこれまでに、一つの勘違い、あるいは思い込みをしていたのでした。

 確かに私は再び、音楽へ興味を持てなくなった自分へと回帰してしまいました。でも、だからといってどうしてそれが、これからも興味を持つことがない、ということの証明になるのでしょう?

 そう。その可能性は、いささかも否定されてはいないのです。

 音楽が存在している限り、私には「私が再び音楽への興味を取り戻す」という可能性が存在し続けます。音楽が不要な環境へと戻ってきたのと同じように、私はいつでも、音楽が必要な環境へと戻ることができるのです。

 アメリカのプロ格闘ゲーマー、PR Balrogは、自身の引退インタビューで、以下のように述べています。

Honestly, I would like to take a big long break before I go to any FGC event, but everyone will probably see me at every EVO and Capcom Cup etc. I love watching fighting games and who knows if any other mainstream fighting games sparks a fire in me in the future? After all, Jordan came back two times after retiring.

訳:正直なところ、格闘ゲーム関連のイベントの前に、長期の休暇を取りたいけれど、でも、おそらくはEVOやカプコンカップなんかのたびに僕の姿を見ることになるだろうね。僕は、格闘ゲームを見ることは大好きだし、それに、将来流行る格闘ゲームが僕に火をつけるかどうかなんて、誰にもわからないだろ? マイケルジョーダンだって、引退後に二度、戻ってきたしね。(※2)

 

※1

三省堂 「全訳  漢辞海」より

 

※2

http://www.eventhubs.com/news/2015/jan/15/i-feel-i-dont-have-same-drive-i-had-and-i-just-dont-dedicate-time-it-pr-balrog-opens-about-his-coming-retirement/ より抜粋。訳は筆者

批評再生塾 道場破り 第四回「サスペンスフルな批評」へのぶっこみ原稿

 ピザは美味しい。

 どんな生地でも、どんなチーズでも、どんなソースでも、どんな具材でも、あらゆるピザはピザというだけで美味しくなるのだから凄い。

 そう、ピザは凄い。

 ピザはピザというだけで、人のテンションをアゲる。私は未だにピザが嫌い、という人間に出会ったことが無い。僕がピザを好きなのは当然として、味が濃いものがだめなうちのばあちゃんだってピザは食べる。タートルズだってピザが好きだ。うちの犬だってピザは食べる。もしかしたら、ピザが嫌いな生物はいないのかもしれない。そう考えると、恐ろしい。

 そう、ピザは恐ろしい。

 例えば食べ物を宅配するサービスにおいて、ピザの普及率、掌握率といったら、ほかの食べ物を圧倒している。というか、寿司にしろかつ丼にしろ中華にしろ、基本的に出前の存在するものは、オルタナティブの選択肢として、有名なチェーン店が思いつくし、そういう意味で出前を取るよりはチェーン店へ行った方が安く上がるというのがあるのだけれど、でもピザはピザだけのチェーン店というものの名前を思いつくことができない。そりゃあサイゼリヤでもパスタ屋でも基本的にピザを食べることはできるけれど、でもバリエーションやコストパフォーマンスにおいて、サイゼリヤやパスタ屋は完全に負けてしまっている。ようするに、「寿司を食べたい」という感情を解消するのにあり得る選択肢として「スシロー」にするか、出前にするか、あるいは高級な寿司店にするかという選択肢が存在するのに対して、「ピザが食べたい」という感情を解消するには「出前」しか、ほぼほぼ存在しない、ということだ。安いし。

 そう。ピザは安い。

 ピザの出前を取るときに、少しだけでいいから、値段と材料とそれが届くまでの時間というのを意識して、覚えておいてほしい。そして、週末の暇な時間でいいから、同じピザを作ってみてほしい。きっと驚くはずだ。ピザを作ることは大変で、金がかかるということに。ピザ生地をこねて、広げて、ソースを作って、具を切り分けて、焼いて、食べるまでに、慣れてなければ二時間近くはかかるだろう。そして材料費だって、2000円近くかかるんじゃないだろうか? それなのに、Dominoピザだったりピザポケットだったり、とにかくピザのチェーン店は、ピザを1000円から3000円の間で販売して、しかもそれを30分から40分の間で家まで持ってきてくれる。どこをどうすればそれが実現できるのか、僕にはまるで理解できない。大量購入による原価の圧縮であったり、冷凍による加工時間の圧縮であったり、とにかく、ものすごい工夫があのピザには施されているに違いない。そしてそれを知るには、つまり、自分が食べている物のもの凄さやカラクリの存在を知るには、自分で作ってみるしかない。ぜひ一度ピザを作ってほしい。そうすれば、驚きが次々と押し寄せてくるはずだ。

 そう。ピザは驚きに満ちている。

 具材がばらまいてあるせいで、一口食べ進めるごとに味が変わる。最近ではピザの耳にチーズを入れてあったりもする。そして、一つのピザでさえ驚きに満ちているのに、例えばポストに投函されるピザ屋のチラシを見れば分かるように、ピザの種類は無数に存在し、そしてそれは年中入れ替わっている。その店のレギュラーメニュー以外が好きな人は、基本的に気を抜かない方がいい。それがあるうちに食べた方がいい。メニューは年中入れ替わっていく。次に注文する時、そのメニューが存在しないことなんてざらにある。その時の悲しさったらない。

 そう、ピザは悲しい。

 僕は未だに中学の時に食べた「ラタトゥイユ・ピザ」の味が忘れられない。本当にもう一度、一度だけでいいから、あれが食べたい。でも、もう食べられない。僕のチェックに抜けが無ければ、「ラタトゥイユ・ピザ」を販売していたPIZZA・Californiaは、もう十年以上「ラタトゥイユ・ピザ」の再販を行っていないはずだ。ラタトゥイユ自体は大して珍しい料理ではない。ラタトゥイユは自分でも作ることができるし、フランス料理屋にだってメニューで出している場所はある。でも、どこに行ってもラタトゥイユ・ピザは売っていない。ラタトゥイユをピザにしよう、という発想は、あの時期のPIZZA・California以外に存在していない。恐らくは今後も、あれを販売する店は存在しないだろう。そして僕は、今後一生あれを口にすることができないだろう。もちろん、再現することもできない。何度も挑戦したけれど、どうやってもあの感動は手に入れることはできなかった。

 そう、ピザは思い出と結びついている。

 基本的にピザは「何かをしながら食べる」食べ物だ。僕のようなピザ狂いは脇に置いておくとして、基本的にはゲームをしながら、テレビを観ながら、誰かと会話しながら、食べるもののはずだ。そしてそうである限り、ピザには、というよりはピザを食すというその体験には、日常的な物とは別の何かが自然と紛れ込んでしまう。朝に鮭を食べるのとは全く異なった食体験がそこには存在している。

 もしかしたら、そうじゃない、という人もいるのかもしれない。ピザは「何かをしながら食べるものじゃない」という人も、もちろんいるだろう。でも、考えてみてほしい。例えば「一蘭」のようなカウンターでピザを食べて、はたしてピザを美味しいと思えるだろうか?

 そう、僕たちはピザに向かい合うべきじゃない。

 ピザは確かに素晴らしいけれど、でも、ピザの素晴らしさはピザにだけ存在しているわけでは無い。ピザには本当にいろいろなものが詰め込まれているけれど、でもそれがピザ体験のすべてではない。唯物論的にピザを見てはいけない。実存的にピザを見てはいけない。もっと包括的にピザの事を見なければいけない。ヴィルチュエルなピザ体験を無視してはいけない。郵便的なピザの効力を無視してはいけない。もっと様々な視点を持つべきだ。そうするだけで、ピザは今以上のピザになる。誰もが今以上にピザの素晴らしさに気が付くはずだ。

 そう。ピザは誰にでも訴えかける。

 ピザを嫌いな人間はいないから、ピザを食べる枚数は限られている。特定の人間が満腹でもない限り、ピザは等しく食べられる。少なくとも僕は「余ったピザ」以外が何者かへ譲られている場面に出くわしたことが無い。例えば「豚肉はくどいから嫌い」という人が、弁当に入っている豚のしょうが焼きを誰かへ譲っていたり、「キュウリはカメムシの匂いがする」と言って定食のサラダに入っているキュウリを誰かへ譲っているのと同じように、「ピザは苦手だから」といって、そもそも食べない、という人間を僕は知らない。僕の周りには米が食べられなかったり、牛肉が食べられなかったり、魚が食べられなかったり、とにかくさまざまな偏食の人間が集まっているのだけれど、不思議なことにピザは誰もが食している。

 そう。ピザは本当に不思議だ。

 基本的にピザに必要な材料と言うのは、生地(要するに小麦粉)とチーズのみだ。それ以外は何でもいい。野菜炒めだろうが、焼き肉だろが、餅だろうが、明太子だろうが、焼鮭だろうが、ホタテの貝柱だろうが、本当に何でもいいのだ。そしてそういう意味では下品な食べ物だ。適当に余っているものを乗せて焼けばできてしまうのだから。そしてなにより、手でつかんで食べるのだから。でもピザを下品とおもう人間はいない。上品と思う人もそこまでいないだろうけれど。もしかしたら誰もが、ピザの下品さには目をつむっているのかもしれない。ピザは確かに下品だけど、とにかくうまいから仕方ないよね、とでもいうような感じで。

 そういう意味で、ピザはライブに似ている。

 例えば好きなロック・スターのライブにファンが集ったとして、そしてそのファンがバカ騒ぎをしているとして、その馬鹿騒ぎをしているファンは、平常の視点からすれば、下品だ。でも、誰もがそれを許しあっている。何故なら自分だって下品になりたいからだ。ようするに、ライブ会場には、下品になりたい、そして、下品であることを許す人間の集いなのだ。そして、誰もが率先して、下品になる。下品な体験を共有する。まるでピザのように。

 だからもし、今度ピザを食べるときは、よく目を凝らしてみてほしい。

 そこには、ぼんやりとではあるが、壁が見えるはずだ。

 ライブ会場と同じ、ピザ会場としての壁が。

 そしてその会場を出た、数日後、数か月後、数年後に、その会場に居合わせた人間と再開したとき、再び、よく、目を凝らしてほしい。

 その人間と、自分とを囲う、奇妙な壁が見えるはずだから。

 でも、別にその壁が見えたからと言って、怖がることは無い。

 誰にでも、何かしらの壁は見えている。君はそのうちの一枚を発見したに過ぎない。

 別にそれを発見すること自体は、特別なことじゃない。

 でもまあ、その壁自体は特別なものだから、大切にした方がいいとは思うけれど。

 さて。

 それではピザの話に戻ろうと思う。

 ピザは――

 

ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第三回「『ポスト映画の世紀』に、『映画(批評)』は再起動できるか」へのぶっこみ原稿

何故キャメロンは映画を構造化したのか――物・事から見る映画の座標――

 

 映画は奇妙だ。

 例えば写真や絵画は瞬間を切り取ることで、その前後の物語や、その場の空気などに対する想像力を喚起させる。そして例えば小説は、あらゆるものを文字のみで表現することで、人物や風景などといった様々なモノの形状や質感に対する想像力を喚起させる。

 そしてそれらの、観客に対する想像力の喚起は、観客の内部に写真や絵画や小説をたたき台にした世界を創造させる。そうして観客は、作品へ(正確に言うならば、作品を材料にして創り上げた各々の世界へ)没入することとなる。そう、作品によって喚起された想像力というのは、作品によって召喚された別世界への扉、と言い換えることも可能なのだ。

 しかし他方で、映画はそれらの想像力を積極的に抑制する。物語の初めから終わりまでをパッケージングすることで、物語の前後に対する想像力を抑制し、人物や風景などといった様々なものを画角に収めることで、それらに対する想像力を抑制する。それだけではない。音楽を流すことで、その場の空気感に対する想像力を抑制し、場合によっては登場人物に独白させることで、登場人物の心理に対する想像力さえも抑制してしまう。つまり、写真や絵画を鑑賞したときや、小説を読んだときに現れるような扉は、映画においては決して召喚されないのである。そうして観客は、一切の寄り道を許されることなく、映画の中核に存在するメッセージへと一直線に導かれる。

 しかし、にもかかわらず――そしてこれこそが、私が「映画は奇妙だ」と感じる原因なのだが――我々は映画を観賞することで、想像力を喚起される。我々は決して、ただ受動的に、スクリーンに映し出された映像を享受するということができない。それらの情報は我々に内在する想像力を呼び起こし、我々へ――絵画や写真や小説などによる想像世界とは全く別の――何かを見せている。

 一体それは何なのであろうか。

 我々は映画を観ながら、並行して、いったい何を見(せられ)ているのだろうか?

 

 結論から述べるならば、我々は映画で見たものを「引き下ろした」架空の自分の人生を見ているのである。

 どういうことか。

 今日では、映画の定義も様々なものへと分岐しており、なおかつそれぞれに「一理ある」ために、特定の立場をとることは非常に困難であるが、とりあえず「映画を構成するために最低限必要なもの」という問いに対しては「映像、物語、観客」と答えることができるであろう(音楽は、映画の出自からして、そもそもは無くてもよいものである)。

 そしてそもそも映像というメディアは、非情に素朴に定義するならば「目の前に存在しない物・事を存在させる」メディアである。例えば部屋に自分とディスプレイのみが存在するとして、そのディスプレイにリンゴが映れば、それはリンゴをある意味で現前化させることになる。

 しかし他方で――これまた非常に素朴に考えれば――現実にはリンゴは存在しない。リンゴの映像(=記号)が存在するだけである。そしてディスプレイにリンゴが登場したその瞬間から、我々はさまざまな想像を膨らませるわけであるが……しかし、映画はその想像を抑制する。

 何故か。それは、そこに「物語」が存在するからだ。

 映画に物語が存在する以上、そこへ登場するリンゴには何かしらの役割が与えられていることになる。それが主人公の空腹を満たすのであれば、リンゴは食材としての、それが拳銃によって撃ち抜かれるのであれば、リンゴは的としての役割を持つ。

 そして仮に、主人公がそのリンゴを食べて空腹を満たした場合、我々は、リンゴが銃で撃ち抜かれる姿、という想像力を抑制されることになる。結果として我々は、主人公がリンゴを食べる姿を見て、空腹を感じるわけであるが……しかしその場合、我々は決して主人公に感情移入しているために、空腹を感じるのではない。なぜならば本当に我々が主人公へ感情移入していた場合、我々が感じるべきなのは空腹ではなく、空腹が満たされる快楽であるべきだからだ。

 それでは何故、我々はリンゴを食べる映画の中の主人公を見て、空腹を感じるのかといえば、つまるところそれは、我々がそれを見ることで、リンゴを食べる我々の姿を想像してしまうからに他ならない。つまり、我々は映画を観つつ、その向こう側に、我々へこれからやってくるかもしれない、もしくは、やってきていたのかもしれない架空の人生を想像し、それと現在とのギャップを体感するのだ。

 ようするに、我々は映画を観ることで「架空の人生としての」想像上の世界を創造し、映画の中から「物・事」をそこへ引き下ろし、そこに「アイデア」というレッテルを貼り付け、留保し、そして「アイデア」の内容によっては映画館から出たその瞬間に、現実の世界へとさらに引き下ろすことを欲望している、ということになる。

 例えばアップルウォッチを考えてみてほしい。アップルウォッチはつい数十年前まで「時計型通信機」というような名を冠した架空のデバイスであり、それを使用できるのはジェームズ・ボンドなどの、スクリーンの中に存在する、限られた存在のみだったはずだ。そういった観点から見れば、アップルウォッチは「想像上の空間へ引き下ろされ、留保され続けたアイデア」と呼べないだろうか?

 と、ここで勘のいい読者ならばこう考えるだろう。「それは果たして、映画のみの特権なのだろうか?」と。

 確かに架空の物体を描く、ということは、絵や小説でも可能である。しかし他方で、そこにはコンセンサスが存在しない、という重大な欠点がある。例えばアップルウォッチらしきものを絵に描いたとして、それを見た鑑賞者が百人いれば、百人分の「想像上のアップルウォッチ」が存在する(ある者のアップルウォッチは音声のみの通信しかできないかもしれないし、ある者のアップルウォッチは、3Dホログラフィが飛び出すかもしれない)。そしてそれは小説においても同じである(ある者はリストバンドサイズのアップルウォッチを想像するかもしれないし、ある者は通信を行う際に、アンテナを立てるかもしれない)。そしてコンセンサスが存在しない限り、我々は決してアップルウォッチをこの世界へ引き下ろすことができない(誰かがアップルウォッチを作ったとしても、誰もが「考えていたのと違う」と言うに決まっている=引き下ろせていない)。

 そして、次のような疑問を抱く者もいるだろう。「それは果たして、映画と関係のあることだろうか? 映像であれば何でもいいのではないだろうか?」。

 その疑問を解消するためには「ミス」という一つの座標軸を導入しなければならない。

 

「ミス」を軸にして映画をみたときに、ちょうど真逆の座標に位置するメディアが、一つだけ存在する。それは「テレビゲーム」である。

 ここで思い出してほしいのは、私が先に述べた「映画に最低限必要なもの」の内容である。私はそれを「映像、物語、観客」と述べた。しかしその要素はそのまま、「テレビゲーム」へと転用することが可能である。テレビゲームは「テレビ」を使用して遊ぶ以上、映像と観客(であり演じ手でもあるプレイヤー)の存在は不可欠なものである。また、その多くには物語が付されている。例えば「ファイナルファンタジー」シリーズや「ドラクエ」シリーズなどに代表されるロールプレイングゲームなどはもとより、「ストリートファイター」シリーズなどに代表される格闘ゲームや、「ぷよぷよ」などに代表されるパズルゲームなど、ゲームのシステム上、本来必要ないはずのジャンルですら「ストーリー」が――「テトリス」などといった稀有な例を除けば――実装されている。そして映画と同様、音楽は、必ずしも必要なものとは呼べない(例えば深夜に、親へばれないように音を消してゲームをプレイした経験が、諸君にはないだろうか?)。

 このように、映画とテレビゲームの構成要素はほぼ同じであり、ゆえに親和性が非常に高い(例えば「メタルギアソリッド」シリーズで名高い、小島秀夫監督が、それを如実に体現している)。しかし、映画とテレビゲームがいまだ完全に一体とならず、それぞれが独立性を保ち続けているのは、その両者の「ミス」に対するスタンスが、真逆であるためである。

 どういうことか。

 テレビゲームとは、大まかに説明するならば、いくつかに区分けされた課題(それはしばしば「ステージ」と呼称される)のすべてをクリアすることを目的としている。そしてひと区画の最中にミスを犯した場合は、その区画の最初からやり直さなければならず、その区画をクリアしない限り、次の区画へと進むことはできない。つまりはミスを犯し続ける限り、プレイヤーはその物語を終えることができないのである。

 他方で映画はどうか。ほとんどの映画では、主人公、ないしは脇役の何者かがミスを犯すことが、物語を進めるための条件となっている。なぜならば映画において、ミスが発生しない限り問題が生成されず、問題が生成されない限り主人公は平凡な生活を送り続け、待てど暮らせどエンディングがやってこない、ということになるからだ。

 そう、テレビゲームが「ミスを犯し続ける限り進まない」という構造を持っているのに対して、映画は「ミスを犯さない限り進まない」という構造を持っているのだ。

 しかし、真逆の構造を持っているにも関わらず、両者によって示されているものは全く同じである。ようするに、テレビゲームや映画がそこで提示しているのは「ミスの乗り越えの物語」なのだ。つまり、テレビゲームは観客に、ありうべき「ミスの乗り越えの物語」を創造させ、他方で映画は観客へ、完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験をさせる、という方法論を取っている。そしてその違いによって、テレビゲームと映画の独立性は保たれていた。

 しかし今、その独立性は、特に、映画の独立性は、解体されようとしている。ネット動画――とりわけ、ニコニコ動画における、ゲーム実況プレイ動画の台頭によって。

 

 そもそも「完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験」という観点でいえば、テレビにおけるドラマやドキュメンタリーなどにもその側面があった。しかしそれでも、それが映画的であり続けたのは「二時間近く客を拘束できる」=「ミスの乗り越えの物語を、初めから最後まですべて体験させられる」ためである。そう、テレビはいつでも離脱が可能なため、その効力は明らかに映画よりも低いのだ。

 もしかすれば、「ゲーム実況プレイ動画も同じこと」と思う者もいるのかもしれないが……しかしその前に、ゲーム実況プレイ動画について、説明しておこう。

 ゲーム実況プレイ動画とは――詳しい分析については、村上裕一の著書「ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力」に記してあるので、そちらを参照してほしい――簡潔に述べれば、実況者(=ゲームのプレイヤーであり、動画の投稿者)がゲームをプレイし、そのプレイと、ゲームに対する実況者の実況を視聴者が楽しむ、というスタイルの動画である。注意すべきは「実況」という言葉であり、それは例えば野球やサッカーの中継放送において我々がよく耳にするような実況ではない、ということだ(ただし、逆説的な効果を狙って、それを真似した例外は、少ないながらいくつか存在する)。ここでいう実況という言葉が意味しているものは、いわゆる「リアクション」である。実況者の「リアクション」は多岐にわたり、ホラー演出に対する絶叫から、奇妙なキャラクターや演出に対するツッコミ、まるで的外れな推理、あるいはゲームとはまるで関係のない日常の愚痴に至るまで、様々なものが存在する。

 さて、ここで重要なのは、視聴者が何を楽しんでいるかである。実況者の実況=リアクションは確かに再生数を伸ばす重要なファクターではあるものの、そこへ重点を置くあまり、プレイが雑になると、動画は基本的に“荒れて”しまう。実況=リアクションによって視聴者を楽しませながらも、誠実にゲームをプレイし、クリアする、というその態度が、多くの視聴者を掴んでいることは、例えば百万再生を優に超えている動画をいくつか見れば、容易に分かることである。

 ここで思い出してほしい。ゲームはミスを許さないという構造を持つ。しかし我々人間は、ミスを犯す生き物である。そして、ゲーム実況プレイ動画において画面に映されるのは、ゲームそのものではなく、実況者によるプレイであり……そう、つまり視聴者は、実況者がゲームをクリアするまでの間、半強制的に「完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験」をすることになるのである。

 しかしここで重要なのは、その「半強制的」という言葉の意味が、テレビとは明らかに異なっている、ということである。

 例えばテレビは、一度離脱してしまえば、再放送されない限り、基本的には戻ることが不可能である。しかし他方でゲーム実況プレイ動画は、それがネット上にアップロードされた動画であるがゆえに、いくつかの例外――著作権違反による企業側の削除、あるいは実況者による自主的な削除――を除けば、基本的には戻ることが可能なのである。

 今日において、ゲーム実況プレイ動画、および実況者の影響力は非常に大きい。それは例えば、ゲームメーカーがプロモーションを兼ねて実況者へ「公式実況」を依頼する、というその行為などにも表れている。そして、その影響力がこれほどまで大きくなった原因に、ネット独自の構造(=半強制性・回帰性)と、映画的なもの(=完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験)が存在していることは、もはや否定のしようがない事実である。

 

 さて、私は本論の冒頭で「映像というメディアは、非情に素朴に定義するならば「目の前に存在しない物・事を存在させる」メディアである」と述べた。しかしこれまで見てきたように、映画における「事」(=完成した「ミスの乗り越えの物語」の体験)の存在は、ゲーム実況プレイ動画によって広く拡散されることで、その軸足を「映画的なもの」から「動画的なもの」へと、移してしまっているのである。

 それでは「物」に関してはどうだろうか?

 例えばニコニコ動画では「作ってみた」というタグがつけられた動画は無数に存在し、Youtube上にもそれに類する動画は存在している。そしてそれらの中には確かに、高い再生数を誇るものも存在する。しかし少し検索していただければ分かるように、そこで作成されている物の多くは、未知なる物ではなく、既に存在するアイデアの具現化なのである。

 何故このような現象が起きているのか。その答えは、ネットという構造に存在している。

 そもそも動画を録画し、公開する以上、そこには「多くの人に知られたい」という欲望が必然的に働いている。しかし、個人の制作物が多くの人に知られるには、その制作物が、知名度を持つものでなければならない。何故ならば、ネット動画へアクセスする方法の大部分は検索に依存しており、そしてほとんどの人が検索ボックスへ入力する言葉は「知っている言葉」だからである。

 すなわち「未知なる物を発明し、ネットへ公開しても、意味が無い。何故ならそこへ辿り着くためのチケットを、誰も手にしてはいないのだから」というこのネットの構造が、ニコニコ動画、およびYoutube上の動画には強く影響し、だからこそ、映画の中に登場したギミック(例えばライトセイバー)や、料理(例えばスタジオ・ジブリのアニメーションに登場する料理)の再現動画を溢れかえらせているのだ。

 しかし逆に言えば、この状況は、映画の独自性を保っていることの証明材料になるのではないか。

 

 例えば私は、映画を見た際に鑑賞者に起こる現象を「「架空の人生としての」想像上の世界を創造し、映画の中から「物・事」をそこへ引き下ろ」すと述べた。そしてそれに対する一つの批判として「それは果たして、映画と関係のあることだろうか? 映像であれば何でもいいのではないだろうか?」というものを想定した。

 しかしこれまで見てきて明らかなように、映像であれば何でもいいというわけではないのだ。確かに「事」の側面では、ネット動画でも映画と同様の効果が得られるだろう。しかし少なくとも「物」において、映像、とりわけネット動画は、ネットに公開するというその目的上、「物」はすでに想像上の空間、それも多くの人が共有している想像上の空間に引き下ろされていなければならない。すなわち、ネット動画において未知なる「物」を人々へ提供することは、原理的には可能だが、しかし現実的には不可能なのである。

 そしてそれは、テレビにおいても基本的には不可能である。

 例えばドラえもんについて考えてみよう。ドラえもんはこれまで数多くの話数が放送され、そこには数多くのひみつ道具が登場してきたが、しかし、我々はそのうち一体いくつのひみつ道具の名前とその機能を挙げることができるだろうか? これは私の主観的な予想でしかないが、一般的には十個前後、ニ十個以上列挙できれば大健闘、というところではなかろうか。

 それでは何故このようなことが起きるのかといえば、それは「あまりにも数が多いから」ではなく、「番組があまりにも「物の提示」を優先しすぎているから」である。ドラえもんは三十分番組であるが、二部構成であり、それらは全く別のエピソードであるため、異なるひみつ道具が登場する。そうして短い時間の中で、毎週二つのひみつ道具が次々と提示され続けるために、我々はそれらを映像の中から想像世界へ引き下ろす(=使っている姿を想像する)、というそれまでの作業が中断されてしまうのだ。そして逆に言えば、我々がドラえもんひみつ道具を幾らかは思い出すことができるのは、それが長期間にわたって繰り返し登場したために、想像世界へ引き下ろす作業が完了したからに他ならない。

 そう。映像の中に存在する未知なる「物」を想像世界へ引き下ろすには「拘束力を持ったそれなりの時間」が必要となるのだ。

 そしてそれを、映画は持っている。

 

 再び本論の冒頭にて提示した設問と、それに対する結論へと戻ろう。

 設問はこうであった。

「我々は映画を観ながら、並行して、いったい何を見(せられ)ているのだろうか?」

 そして結論はこうであった。

「我々は映画で見たものを「引き下ろした」架空の自分の人生を見ている」

 これまでの考察から分かるように、この結論は不完全なものである。なぜならば、この結論は「我々が見ているもの」への解答であり、「我々が見せられているもの」=「映画が我々へ見せているもの」への解答ではないからだ。

 しかしその解答も、既に導き出されている。それは、こうだ。

「映画は我々へ、未知なる物を見せている」

 そしてこれこそが、現代における、映画が映画的であるための条件である。

 これまではそうではなかった。なぜならば、映画は我々へ「未知なる物・事」を見せることが、映画的であるための条件であったからだ。すでにお分かりのとおり、物は具体的な物質――ギミック、モンスター、マシーン、など――を、そして事はストーリーを指す。

 これまでは「事」の変奏でやってくることができた。しかし映像における「事」がネット上へ無数に拡散され、無限に近い変奏が奏でられてしまった今、「事」は映画を映画たらしめることはできない。

 映画を映画たらしめることができるのは、「物」のみである。

 

 この結論が、いったいどれくらいの普遍性を帯びているのか、また、どれくらいの強度を持っているのか、私には判断がつかない。しかしこれが、ある一つの事柄を理解するために必要となる、重要な補助線になるであろうということだけは、確信している。

 それは、ジェームズ・キャメロンの作家性である。

 キャメロンはこれまでに、無数の「未知なる物」を生み出してきた。恐らくキャメロンは、数十年前から映画における「物」の重要性に気づいていたのだ。だからこそ、映画における「事」に対する作業量を最低限にとどめるべく、「事」の「型」を作り出したのだ。

 確かにそうやって作り出された「型」は、傍から見れば「物語よりも構造が先行している」ように見えるのかもしれない。あるいは「ハリウッド映画からたんなるアメリカ映画へ」という凋落とも見えるのかもしれない。

 しかしキャメロンは、もしかすれば、「物」の重要性に気が付くことで、そのネガとしての、「事」が失われる未来を予感していたのではないだろうか。そしてキャメロンは幾度も、そして今でも、映画を再起動させ続けているのではないだろうか。

 そう、恐らくキャメロン的な「物の映画」は、未知なる物=未来と現在とを繋ぐ、一つの扉に他ならず、そして批評に求められているのは、そうして現れた扉の理論的な引き下ろしに、他ならないのだ。

ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第二回「ポスト昭和はどこにあるのか」へのぶっこみ原稿

ソナタビバップが、僕らを導く」

 

 昭和は団結の時代であった。また、団結せねば生き残れない時代でもあった。戦時中はもとより、戦後も復興のために、あるものは地域に属し、あるものは会社に属し、団結していた。団結し、邁進することこそ、夢にまで見た平和と繁栄へ通ずる道であると、誰もが信じていた。そしてその夢が霧散する可能性については、誰も考えてはいなかった。

 夢は高度経済成長として現実となり、バブルとなって膨れ上がり、いとも簡単にはじけてしまった。そうして、あらゆる団結の根拠は失われてしまった。目標を失った団結の脆弱さが露呈されてしまった。バブルの傷跡から、団結以外の方法で立ち直る術を求められたが、しかし誰もそれに応えることはできなかった。年号はいつの間にか、平成へと移り変わっていた。

 団結が価値を失ったその反動として、あるいは反省として、人々は個性に価値を置くようになった。子どもたちにも、その価値観は「ゆとり教育」としてもたらされた。昭和63年生まれである私も、その一人である。私の個人的な体感としては、「ゆとり教育」自体が、我々の個性を積極的にのばしたとは思えないが、しかし他方で、団結に対する盲目的な価値をとりはらい、個性=個としての存在価値を探求する機会を与えたことは確かだった。

 そうして我々は団結から個へと価値を移行し、IT革命やSNSの発展によってその具体的実践場が用意され、誰もがそこで個としての表現をすることが可能になった。そう。個の時代が到来したのである。

 それは、新たな時代のあり方として、うまくいくかに思われた。確かに問題は多く存在するものの――個として取り残された者たちの凄惨な末路。つまりは秋葉原通り魔殺人事件や、老人たちの孤独死――しかしそれらは、社会的、科学的な技術の発展――例えばベーシックインカムや、個人判別可能な監視カメラ――によって、解決可能だと思われていた。そう遠くない未来に、個としての、平和と繁栄を勝ち得た未来が存在すると、夢見ることができたのである。

 しかし昭和の夢がいとも簡単にはじけてしまったように、平成……とりわけゼロ年代の夢も、いとも簡単にはじけてしまった。2011年3月11日の、東日本大震災によって。

 そうして再び、団結の時代が到来した。IT革命やSNSの発展が「団結から個へ」という価値の移行を推し進めたように、東日本大震災はその真逆、つまりは「個から団結へ」という価値の移行を急速に推し進めた。

 そう。我々は昭和へと回帰したのである。

 それならば、我々は結局のところ、何も獲得することができずに、ここまで来てしまったのであろうか。それとも、僅かに存在した「個の時代」こそが、「ポスト昭和」としての、失敗の獲得であったのだろうか。

 いや、恐らく「個の時代」は、「ポスト昭和」ですらないだろう。いうなれば「プレ・ポスト昭和」。つまりは、前時代の価値を批判しながらも、新たな価値へとジャンプしきれていないような、二つの価値の刃境に存在する、不完全な価値であったに違いない。

 しかしそれは、決して無意味な価値ではないのではないか。「個の時代」を失敗と決めつけ「団結の時代」へと回帰するのではなく、「個の時代」の先に存在する、新たな時代へと進むべきなのではないか。そして、新たな時代を形作るためのヒントは、我々へ充分に与えられているのではないだろうか。「トウキョウソナタ」と「カウボーイビバップ」という、二つの作品によって……。

 

トウキョウソナタ」は、2008年に公開された、黒澤清監督による、家族の崩壊と再生を描いた群像劇形式の映画である。家族の崩壊と再生、というそのテーマは、極めて保守的であるものの、しかし私がこの映画を「新たな時代を形作るためのヒント」として挙げるのには、その再生の「在り方」と、再生した結果としての「家族」が、明らかにこれまでの家族像とは異質であるためである。

 まずはトウキョウソナタの概要を説明しよう。

 物語の中心を担うのは、佐々木家という、東京の住宅地に住む、ごく普通の一家である。佐々木家は父の竜平とその妻である恵、そして長男の貴と弟の健二で構成され、そこにはわずかながらではあるものの、父性が確かに存在していた。

 しかしある日、その父性が根拠を失ってしまう。竜平がリストラされたのだ。彼は父性の喪失を恐れ、失業をひた隠しにしたまま、会社へ出社する振りをしつつハローワークへと通い、就職活動をつづけた末に清掃員の職へ就くのだが、収入の激減はまかなえず、結果として家族には一連の出来事を伝えられないでいた。

 しかしそういった秘密を抱えながら平静でいられるほど、彼はしたたかではなかった。秘密を抱えた心は焦りを生み出し、焦りはその裏返しとして傍若無人な態度=父性を勘違いした家族への理不尽な締め付けとして表れ始める。

 当然、そのような振る舞いがうまくいくはずもなかった。息子たちは父親と激しく衝突した末に、大学生である貴はアメリカへ飛び立ち、小学生である健二は家出に踏み切った。さらには妻である恵が、清掃員として働く竜平と偶然鉢合わせることで、竜平さえも家から逃げ出し、その態度に腹を立てた恵までもが家から出てしまうことで、最終的に佐々木家は伽藍堂になってしまう。

 そこから佐々木家の再生の物語が始まるわけだが、しかしそこでは、例えば安易に想像できるような、家族の「大切さ」や「ありがたみ」などを描く描写は一切行われない。

 父である竜平は、逃走した先で車にひかれ、丸一日近く放置され、自ら目覚め、家に戻る。

 健二は家出の手段として、バスの荷台に紛れ込むことを選ぶものの、そのバスが到着した先であえなく発見され、警察に逮捕され、一晩留置所で過ごしたのちに、バス会社側の起訴取り下げによって解放され、家に戻る。

 母親は偶然知り合った男と海へ向かい、浜辺に立つ小屋で一晩を共にするが、翌朝目覚めてみると男の姿はなく、しばらく海を眺めた末に、家へ戻る。

 そして竜平は、かねてより健二が希望し、二人が衝突する原因ともなっていた音楽大学付属中学校への受験を許可し、ラストシーンはその受験風景――健二が受験会場で、ドビュッシーの「月の光」をピアノで奏でる――で幕を下ろすのである。

 以上が、「東京ソナタ」において描かれる、佐々木家の再生の物語である。

 佐々木家の再生の物語は、極めて淡々と描かれる。彼らが方々に散った先で、孤独を感じるような演出は見られても、家族の「温かみ」や「ありがたみ」について語るセリフや演出は皆無に等しい。しかしそれでも、映画のラストは――健二がピアノを弾き、両親がそれを見守るだけ、であるにも関わらず――感動に溢れている。

 恐らく彼らは個になることで、家族に対する盲目的な肯定性や、個であることに対する盲目的な否定性を、すっかり失ってしまい、その代わりとしての、新たな家族としての形態、あるいは、それを形成するための視点を手に入れたのだ。

 つまりはこういうことだ。

 かつて、佐々木家は誰もが、家族の価値を盲目的に信じていた。家族なのだから、家族を助けるべきであると考えていた。もっと言えば、親なのだから子を助けるべき、子なのだから親を助けるべきであるという、強固な考えを持っていた。だからこそ、誰も彼もが助けを求めた。そしてその結果として、家族は崩壊してしまった。

 しかしその崩壊は、全ての意味を無に帰すような崩壊ではなかった。その崩壊は、彼らにある発見を与えた。

 佐々木家の人間は方々へ散り、誰もが同じ個となることで、等しくなった。親や子や妻や夫という階級は、全て吹き飛んでしまった。それは、他者の視点の獲得だった。「互いが互いを思いやる」ということに対する、本質的な理解だった。誰も彼もが同じ個の立場に立ったからこそ、他の人間の孤独や無念を理解することができたのだ。

 強固な団結から、個としての緩やかな連帯へ。「助けられるべき家族」から「助けたい家族」へ。恐らくはこれこそが、彼らの獲得した新たな家族像、ないしは、それを形成するために必要な個としての視点なのである。

 と、ここまで読んできた読者は、一つの疑問を抱えているに違いない。兄の貴はどうなったのか、と。

 実は彼は、佐々木家には戻らず、アメリカにとどまったままなのである。それには以下のような事情が存在する。

 そもそも貴は、アルバイトに重きを置く大学生であり、しかし、その生活に虚しさを感じてもいた。そんな中で彼は偶然、アメリカ軍がイラクへ派兵するための、国外志願兵を募集していることを知る。彼はその後、テレビのニュースなどをもとに、日本に自分のやるべきことはなく、日本を守っているアメリカの戦争に参加することこそが自分のやるべきことだと考え、独自に応募し、保護者のサインが必要な入隊志願書を持って、竜平にサインを求める。竜平はこれを拒否し、その理由を並べるものの、それはとても貴へ届くようなものではなく、結果として後日、母親にサインを求め、母親もまたそれに応じることで、貴はアメリカへと飛び立つことになる。

 しかしその後、世界情勢が変化し、国外志願兵のイラク派遣は中止が決定される。そして貴は以下のような手紙を、アメリカから佐々木家へ送るのである。

「ご無沙汰しています。皆さん元気ですか。最近になって、僕はアメリカだけが正しいわけではないということを知りました。だからもう少しこの国に残って、この国の人たちのことを理解したいと思っています。そしてできれば、この国の人たちと共に戦って、本当の幸せを見つけることが、僕の進んでいくべき道だと考えるようになりました。どうか心配しないでください。僕は元気でやっています」

 これは貴がアメリカへ行くことで個になり、個の視点を獲得したことを示す、重要な手紙である。もしも貴が個になりながら個としての視点の獲得に失敗していれば、つまり「やはり個ではなく家族だ」と考えていれば、こんな手紙を送ることはせず、真っ先に日本へと返って来るだろうし、そもそも個になりきれていなければ、つまり、家族としての価値を信じながらも、救われないことに苛立っているのならば、手紙を送らず、しかし日本には帰らず、アメリカのどこかをさ迷い歩いていたに違いない。

 恐らく貴は、こう考えているのではないか。

 間もなく成人し、独り立ちしなければならない自分は、いったい何をなすべきなのかということについて、真剣に考えなければならない。そしてアメリカに残り、それを探求し、獲得することこそが――つまりは無目的に日本へ戻り、フリーターニートという将来を回避することこそが――個としての連帯=新しい家族の一員としての、最も優先すべきことなのではないだろうか。

 貴の手紙に対して、佐々木家が返事を送ったというような描写は無い。送ったのかもしれないし、送っていないのかもしれない。しかし送ったとしても挨拶程度のものであり、決して「戻ってこい」というような手紙ではないだろう。

 そう。個としての連帯=新しい家族において、個であることは、引き受けるべき対象であり、否定すべき対象ではないのだ。誰もが個であることを引き受ける。そして個からにじみ出る孤独や無力に蝕まれ、倒れそうな個が現れた時にのみ、手を差し伸べる。それこそが、個を接続する連帯の正体である。

 

 ただ、残念なことにこの「トウキョウソナタ」では、個としての連帯が、その後も実際にうまくいっているか否かという描写は無い。新たな連帯の可能性に、希望を抱かせつつ閉幕しているためである。

 そのため、この映画では具体的に「個としての連帯」を検証することができない。しかし私はその検証を「カウボーイビバップ」で行うことができるのではないか、と考えている。

カウボーイビバップとは、1998年から1999年にかけてテレビシリーズとして放送され、2001年には劇場版として放映されたSFアニメーション作品である。この作品の設定は膨大であるため、紙幅の関係上、本論に関係のないSF設定などの説明は割愛させていただくが、必要最低限に世界観を説明するならば、太陽系の星々に人々が住み、しかし文化レベルは現代とさほど変わらず、個人や企業の宇宙船によって星々の間を行き来することが可能になった世界、というところだろうか。

 主人公たち(スパイク・スピーゲル、ジェット・ブラック、フェイ・ヴァレンタイン、エドの四名)はその世界で、宇宙を旅しながら犯罪者を捕え、警察に連行し、警察がその犯罪者にかけた賞金を得る「カウボーイ」を生業としている。

 テレビシリーズでは、総集編を除けば全26話が放送され、その内容もサスペンスやホラー、コメディなど多岐にわたるのだが、一貫して描かれるのは、彼らの独特な関係性である。

 彼らは同じ「カウボーイ」を生業とする同業者として、ジェット・ブラックの所有する宇宙船「ビバップ号」に搭乗し、共同生活を送っている。しかし彼らの関係性は、単なる仕事仲間というわけではないが、しかし家族のようでもなく、その中庸にある関係性を、26話通して維持し続けている。互いに立ち入りすぎることなく、かといって放置するわけでもなく、倒れかければ手を差し伸べ、それで立ち直れば静かに手を引く。そんな関係である。

 その関係性が維持できるのは――テレビシリーズをリアルタイムで見ていた時は気づきもしなかったが――紛れもなく、個であることを誰もが引き受け、連帯しているためである。

 さらに興味深いのは、主人公たちが相対する犯罪者のほとんどが、個であることを引き受けられなかった、あるいは、個であることに耐えきれなくなった者――例えば戦争から帰還した兵士、例えば寝たきりの青年、例えば長期間放置されたAI――であるという点だ。そう、この作品は一貫して、個としての連帯をしている者と、個であり続けたために限界を迎えた者の対立を描き続けているのである。

 

 恐らくこのカウボーイビバップは今まで、クールでハードボイルドなフィクションとして、「実際にこんな関係性は作ることはできないけれど、もしもできたら楽しそうだね」というような、夢物語として語られてきたのだと思う。

 しかし今、そこへ辿り着くための道は示されている。

 トウキョウソナタが示している。

 我々は進むことができるのだ。

 団結ではなく、個でもなく、個としての連帯へ。

 昭和ではなく、プレ・ポスト昭和でもなく、ポスト昭和へ。

 過去ではなく、未来へ。

 

文字数 5836

はじめに : ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾、とびいり道場破り、おっかなびっくり

 東浩紀さんのツィッターにて、批評再生塾の道場破り歓迎、と書かれていて、楽しそうで、すごく迷ったんですけれど、結局我慢できなくて、ちょっと参加させて頂こうと思い、このブログをつくりました。

 

 とりあえずここではブログの説明(という名の言い訳?)しかしないので、もしも私の評論に興味をもってくださっていて、お前のことはどーでもいいよ、的な感じであれば、ここはスルーしていただいて、次の記事へ行ってください。

 

 とりあえずルールとして、課題提出の期限は守ろうと思います。

 まぁ、最初っから丸一日遅れちゃっているわけですけれど……。すいません。次から頑張ります。昨日の朝に東さんのツィートに気が付いて、迷っているうちに期限が過ぎていて、やっぱやろうって思って、今に至るって感じです。

 

 あ、あともう一つのルールとしては、一生懸命真面目に書く、っていう、何ともあほっぽいルールを設定しようと思います。……ほら、お金払ってるわけじゃないし、評価されるわけでもないから、どうしても堕落しそうじゃないですか。これは一応、その為のストッパーとしての宣言、的な。

 

 その辺ですかね。ルールとかは。また何かあったら、追加しようと思います。

 あ、あと、はてぶって初めて使うので、もしも何か妙なところああったら、すんません。徐々に学んでいきますので、その辺は堪忍してください。

 

 できるだけ、全力で頑張ります。

 よろしくお願いします。

 お手柔らかに。

 チェストー!